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国道16号線 千葉と富士と古墳群と。

1日、千葉を一人で走っていた。
メモを残しておく。
千葉の16号線エリアがどんな地形をしているのか。改めてきめ細かくみたくなったのだ。
朝、家を出て、東京アクアラインで木更津に向かう。
木更津で降りて、そのまま富津へ。
高速道路を降りるところから、冬富士がどーんとみえる。


富津の岬をめざす。公園の入り口から岬の先端まで1キロ以上ある。
潮の関係で堆積した、富津岬。
駐車場の前には、中洲がある。
パラシュートをつけたサーフィン(あれ、なんていうんだろう)をやっているひとたちが、十人以上いる。
展望台にあがる。
富士山が大きい。
橋頭堡ごし。
おそらく、三浦半島のつけねのあたり、追浜から田浦のあたりの向こうに富士山がみえる。
猿島の向こうに米軍基地と横須賀の市街。
そこから左手にぐいっと横須賀の街並みが伸びて、先端の観音崎の緑の下に京急ホテルと横須賀美術館がわかる。
あそこが走水だ。
日本武尊はあそこから船でここまでやってきた。
途中で海が荒れて、四人の姫がみ投げをして、嵐を納めたという。
そのうちの一人が蘇我氏の娘で、のちに生きてみつかり、千葉の蘇我の地名とつながったらしい。
走水から富津まで、わずか5キロほどの距離だが、東京湾はときとして波が高い。今日も風が強かった。白波がたっている。こんな日に船を出すのはたいへんだったろう。
一方で、房総と三浦がいったりきたりすることが当たり前の距離と地形、ということもすぐにわかる。よる、火を灯せば、信号がおくれる距離だ。
南に目を向ける。
館山と観音崎のあいだに、浦賀水道に無数の船が並んでいる。
釣り船だ。
四角い船が横切る。東京湾フェリーだろう。
房総には、巨大な観音像がそびえている。
いつかあの観音像にも会いに行こう。
北を見る。
横浜の街。ベイブリッジ。
東京の街、スカイツリーがぼんやりみえる。
目の前の水平線はそのまま東京湾の向こうの太平洋だ。
富津の公園を離れて、16号線の起点に向かう。
アリス、というパン屋さんはまだあったけど、残念ながら休みだった。
ここから富津の古墳群へと向かう。
千葉は日本でも有数の古墳群がある。畿内に負けない規模と数だ。
なかでも内房線をわたった富津の内陸にある、内裏塚貝塚は、みごとな前方後円墳だ。
行ってみた。
16号線を右折して、内房線の踏切をわたる。
手前に「東京湾口道路を」という看板がある。
16号線を完成させる海の道だが、おそらくできないだろう。看板だけがのこっている。
古墳群のあるエリアは比較的平坦で住宅と田んぼが点在している。
千葉の平地は神奈川の横浜三浦にくらべると桁違いに広い。
まず、川が大きい。
海岸沿いを走る16号線は、いくつもの2級河川をわたる。
海岸沿いに迫るちょっとした丘陵地があり、あいだに川沿いの低地がある。この低地がぼんやりとなだらかに広いのだ。
いわゆる「谷戸地形」をみせるのはもっと内陸部の丘陵地にせまったあたりまで遡る。
富津の古墳群も、でこぼこのないまったいらな下流域の平地につくられている。
周囲は海沿いの低湿地で、荻や葦がおいしげっていただろう。
たぶん、冬にいっせいに火入れをして、野焼きをし、春に田んぼに変えていく、というプロセスを経たのではないか。そんな田んぼのまんなかに、いくつもの古墳を誰かがつくった。
いちばん大きい前方後円墳の内裏塚古墳にのぼってみた。
周囲は住宅と田んぼである。
古墳全体は、常緑樹を中心に木や笹や竹でおおわれている。緑の里山が田んぼと住宅のあいだに、ぽこんと生まれているような景色だ。
急な階段をあがると石碑がたっている。
周囲はうっそうとした常緑樹。タブにアカガシが中心である。
面白いのはあまり太い木がない。
根っこから数本、幹がのびている。
おそらく30年くらい前にいちど間伐した模様だ。
斜面の木も同様で、それほど古くない昔に、一度大きめの木を切って、そこから萌芽更新させた木が目立つ。
反対側におりていくと、落葉樹中心で葉っぱがないため明るくなる。
コナラに桜が中心。
次の古墳はもっとひらべったい。昔の豪族の屋敷に半分変えられている。得ているのか周囲にお堀がきってある。
富津の古墳群のまとめ。
すべて、住宅と田んぼの間にある。ほとんど起伏のない、川の下流域のひろびろとした低地に、ぽこんぽこんと点在する。
おそらくは、関東にやってきた日本武尊のあとの関西の人々、あるいは渡来人が、きれいな前方後円墳をつくったわけだ。4〜5世紀にかけて、の話だ。
周囲の地形を利用してつくったのではないことは明らかだ。ということはかなりの労力を要するわけである。ヒエラルキーのある組織がなければ、これだけの数の古墳群はつくれない。
そこで疑問がうかぶ。誰の組織か? 大和朝廷? その影響はあきらかだが、日本を統一するまでの政治力と武力は4〜5世紀の大和朝廷にどれだけあったか? 
大量の古墳群の存在は、現地の平民の力をずっと借りなければいけない。西から武力をもって制圧したとしても、平民たちが言うことをきかないと、この古墳群はつくることが不可能だ。
となると、古墳群をつくることと、田んぼを経営すること、それがセットでもたらされて、むしろ古墳群形成に参加したほうが、自分たちにも得になる、といった「インセンティブ」があったのだろうか?
あるいは、関東側に、大和朝廷と融和したグループがあり、平和裏にリモート経営がすでに行われていたのか?
今日はあえて調べないで思いついた仮説だけを記しておく。
あとから検証していきます。
古墳群を離れ、そのまま、木更津のイオンモールへ行く。海沿い。
むちゃくちゃ広い。2階建のたてものが延々と続く。ここひとつの面積だけで中規模都市のダウンタウンの規模に匹敵するだろう。
未来堂書店にいったが、もちろん16号線本は置いていない。
当然である。スペースがすくない。小説がワンスペース。科学本はサブカル扱いでタレント本と並んでいる。ビジネス書だけがコーナーをもらっている。あとは、子供むけ参考書と雑誌と漫画。
店内では自動車も売っている。地元中古車? 外車も日本車もごっちゃに売っている。となりは巨大な映画館。そとにはフットサル場がある。
あるものではなく、「ないもの」に想像がいく。
チェーン系ではない「うまいごはん」「レベルの高いパン屋」「ワインショップ」。そして「セレクトのいい本屋」。たとえば以上を1つの店にしちゃうというのはどうか? などと妄想する。
お客さんは多様だ。子育て世代、老人夫婦。高校生。若いカップル。
ちなみに、俗に言うマイルドヤンキー的なイメージのひと、案外少ない。みなさんが思うイメージは安手のワンボックスに、ジャージにスニーカーにきらきらアイテム。いません。マイルドヤンキーというジャンルが一過性のファッションだった可能性もある。10年前につくられたジャンル、更新されていないけど、あんがいもう違うかも。
モールを出て、16号線で、今度は我孫子に向かう。
我孫子には手賀沼沿いの古墳群がある。
16号線はところどころ混雑するが渋滞で止まるというほどではない。
自動車で移動すると、あらためて千葉が大きいことを実感する。
「千葉」とひとくくりするのは体感にあわない。安房、上総、下総と3つにわけていた藩の感覚の方が実態に足している。
手賀沼は混雑していた。周囲には道の駅はじめ、地元物産をうる施設が3つあるが、いずれも自動車が満車。
そして、橋をわたって、我孫子の古墳群につく。すぐ近くのスーパーに車をとめて、歩く。となりに昔の東大教授の別荘があって、観光資源になっていた。
こちらの子の神古墳は、子之神大黒天・白花山延寿院がどーんと鎮座している。
急な階段をあがると、到着。巨大ないちょう、けやきがひかえる。この施設の古さがわかる。右手には墓場が。
木々の間からみえる手賀沼の水面がうつくしい。
古墳を出る。周囲は台地のうえの住宅街。きれいな家並みがめだつ。もともとこの台地の価値が高かったことがわかる。麓には、お城のような木造の旧家の屋敷がある。似たような意匠の屋敷は、手賀沼の反対岸の高台にもあった。いったいどんな地位の人の家なのだろう。
隣の古墳群を見て回る。さきほどの富津の古墳群とは、全く異なる。手賀沼の古墳群は、沼に面した下総台地の縁の地形をそのままいかしている。台地の縁がそのまま古墳になっているのだ。
手賀沼におりてみる。
コブハクチョウが藻をはんでいる。
陸地では、畑の残り物を漁っている。
古墳のてっぺんにのぼって広々とした手賀沼を見て、沼の淵にたたずんていたとき、妄想が巻き起こった。
かつて手賀沼は印旛沼、霞ヶ浦がつながって、巨大な内海である香取海を形成していた。西からやってきたひとたちは、この香取海をみて、琵琶湖、あるいは大阪湾を思い出したのではないか。そして畿内の景色を見立てていたのではないか。
手賀沼の景色は、静かで大きい。
実は、神奈川サイドにもそういうエリアがある。鶴見川の中流域、寺家故郷村と新治のエリアだ。低地がひろく、田んぼがひろがり、低い丘陵地が点在する。こちらには奈良からやってきたひとが定住した。奈良団地をふくめ関西の地名がいくつもある。この地域の景色が奈良盆地と似ていたからだという。
香取海が広がっていた手賀沼近辺に居を定めた関西の人々は、故郷をここにみたのではないか?
手賀沼をぬけて裏道を抜けて柏へと向かう。でこぼこの多い、下総台地。こちらは、小さな流域構造が見える地形が並ぶ。小流域ごとに、インド米を育てていたというエリアでもある。もしかするとこの地域は、房総半島の低地と違う村の構造があったかもしれない。
こうやって走ってみると、千葉の16号線の地形はあらためて三浦横浜武蔵野に比べるとずいぶん違う。
千葉の房総半島エリアの16号線エリアは、細かく流域単位でわけるには低地がひろすぎる。川は二級河川だから、水害のレベルはしれている。
野焼きなどを行いながら、古墳の形成とセットで、西国の先進的な田んぼ文化が流入していたかもしれない。
この地域は、一方で日本でもっとも人口が多かった縄文文化の集積地でもある。貝塚の数は日本一だ。つまり、「原住民」がいたわけだ。彼らと西国からやってきたひとたちに、なにがあったか?
三浦丘陵、相模原台地、武蔵野台地、下末吉台地は、大和朝廷由来の条理制とは別に、その小流域地形をいかした「村」が形成されていた、と岸由二先生から教わっている。
千葉側はどうだったろうか? というのが今回のフィールドワークのベースにある疑問だ。
今日歩いたイメージでは、房総半島エリアにおいては、神奈川側と異なり、律令のもとに条理制がはいった可能性がある。平坦で広く、水もある低地は、グリッドで切り取る条理制と相性がいい。一方、流域地形でエリアをグリッドするには、いささか低地部分が広すぎる。
ただし、16号線沿いを北上して下総台地にさしかかると、様相を異にする。柏近辺から沼エリアにかけては、小流域構造がみえる。このあたりと、南野へリアでは統治構造が異なっていた可能性がある。












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