メディアの話、その63。メディアはメッセージであるか否か。

「メディアはメッセージである」と1960年代に断言したのは、マーシャル・マクルーハンである。

どういう意味か。それは、個々のメディアの「コンテンツ」以上に、メディアの「形」そのものが、人々の行動を変えてしまう「メッセージ」なのだ、ということである。

例えば、「新聞」というメディアは、毎朝お家に届けられて、朝ごはんを食べながら読んだり、通勤途中で4分の1に折りたたんで読んだり、という「メディア消費」がされた。まず、「自宅に宅配される」という「形」によって、「新聞」は私たちの「行動」を変えている。

新聞は、でっかい紙を十数枚重ねて、折りたたまれた紙の束として、渡される。そこに様々なサイズの記事が、大きな見出しとともに載っている。私たちは新聞を読むとき、バッサバッサとこの大きな紙をめくり、全体をざっと見渡し、自分の目についた見出しを拾い出し、その記事に目を通す。目につくのは、普段から仕事や趣味などで興味のある記事の場合が多いが、思わぬ見出しによって興味を掻き立てられて、全く新しい分野の記事を読むこともある。

私たちは、毎日毎日書籍数冊分の文字が詰め込まれた新聞ぜんぶの隅から隅まで目を通すことはまずない。新聞は、あの大きな紙面をバッサバッサとざっくり見渡して、目についた見出しの記事を読んで行く、というやはり「形」によって、私たちの「行動」を変えているわけである。

かつてのテレビならば、ビデオなどの録画装置が普及するまでは、毎日決まった時間に、固定されたテレビ受像機の前に私たちは縛り付けられなければ、番組を見ることはできなかった。つまり、テレビというメディアは、私たちを時間と場所に固定させる、という「行動」の変化を強いていた。その一方で、テレビをみている時の私たちは、たいがい他のことも同時にやっていた。何かを食べていたり、家族と喋っていたり、電話をかけたり、雑誌を見たり。「ながら」で見られる「テレビ」は、そんな「行動」の変化までをも、もたらした。

こういうマクルーハンの主張に対して、60年代の当時、随分、メディアの中の人からは反発があったらしい。メディアの中の人からすれば、自分たちの作ったコンテンツ=記事や番組や映画作品や音楽の方が、新聞やテレビや映画館やラジオといったメディアの形より、はるかに本質であって、コンテンツこそが、メッセージに決まっているだろう、人々に影響を与えるだろう、と言いたくなるのは、まあ当然である。

どっちが正しいのか?

こういうのは、どっちも間違っちゃいないぞ、としか言えないのだけど、マクルーハンが、メディアの「形」そのものが人々の行動を変える「メッセージ」なのだ、というのは、今だに古びることのない、実に正鵠を射た指摘だと私は思う。

それは、1995年に発行されたニコラス・ネグロポンテの「ビーイング・デジタル」を今読み返すことでわかる事実である。

ネグロポンテはご存知の通り、MITメディアラボを作った人である。90年代には、初期ワイアードにずっと連載をもっていて、毎月読むのが楽しみだった。が、そこで書かれている内容は、当時の私には結構難解だった。

90年代半ば時点の、まだウィンドウズ95が発売されたばかりで、インターネット接続は一般的ではなく、携帯電話の普及はごく一部で、ホームページも存在しなかった。Amazonも、グーグルも、もちろんフェイスブックもこの世には存在せず、スティーブ・ジョブズはアップルを追い出されたままの時代だった。

で、ネグロポンテは、そんな時代を見越して、いやもっというならば、自らの発言で未来を創ろうと目論んで、コラムを書いていたように、今振り返って見ると読める。

彼の「予言」の多くは大体当たった。既存のマスメディアに乗っかっていたコンテンツは、新聞だの雑誌だの書籍だのといったアトム(物質)の状態から、デジタル情報に変換されたビットの状態になる。

80年代からの彼の予言は、2000年代、現実となった。

が、一つだけ、ネグロポンテは「ビーイング・デジタル」で間違った未来予言をしている。少なくとも私はそう読んでいる。

全てのメディアコンテンツが、アトムからビットへ、アナログからデジタルへ変換される時代。そんな「デジタル時代になると、メディアはメッセージではない」。

こうネグロポンテは指摘している。

つまり、マクルーハンの「メディア論」の趣旨の一つは、デジタル時代になると、成り立たなくなる。というわけである。

ネグロポンテの指摘は、一見、正しいように見える。コンテンツがデジタル化して、様々な形のメディアを自由に行き来できるようになったたら、もはや「形」としてのメディアの「メッセージ力」はなくなり、コンテンツそのものが「メッセージ」になる。確かに、理屈で考えるとそうだ。

では、実際に、アトムからビットに転換されたメディアコンテンツが自由に行き来する、インターネットがメディアプラットフォームの主役となった時代、私たちは、もはや「形」としてのメディアから、完全に自由になったのか。

違う。

今、ビット化したあらゆるメディアコンテンツが一番消費されている場所は、どこか。そう。スマートフォンである。

我々は、スマートフォンを、テレビとして、ビデオとして、映画館として、学校として、職場として、ラジオとして、CDとして、新聞として、雑誌として、書籍として、ゲームセンターとして、手紙として、財布として、身分証明書として、使っている。

(あ、ついでに電話もできる)

手のひらに収まる、小さなディスプレイ。あれは何か? あれは、もしかすると現時点で最も私たち個人を縛り付けているメディアの「形」ではないか。

スマートフォンを忘れた時、なくした時、壊れた時、繋がらなくなった時、私たちは不安に陥る。極度の恐怖に狩られる。何故ならば、スマートフォンは、ビット化したメディアコンテンツの受信装置であると同時に、私たち自身の存在意義を詰め込んだ、もう一人の私、のようなものになっているからである。

実は、同じような機能は、タブレットでも、パーソナルコンピュータでもできる。でも、タブレットやパソコンは、私たちの分身にはならない。常時身につけていられる身体の拡張デバイスのような小さなスマートフォンだからこそ、私たちの分身になり得るのだ。

あらゆるものがビット化して、デジタル化した。インターネット上でデジタル情報となったあらゆるものは自在に流通するようになった。

ここまでは、ネグロポンテの言う通りだ。

では、私たちは、形としての「メディア」のくびきから逃れて、コンテンツを自在に摂取する存在に「進化」したか?

スマートフォンを見ると、むしろ逆だ。

私たちは、スマートフォンという「形」に大いに行動を変化させられている。

例えば、インターネット上では意見が二項対立しやすい。また、インターネット上では、耳障りのいい「嘘」が簡単に流通しやすい。インターネットは、あらゆる情報が流れているから、ちょっと検索すれば、知識を増やすことで単純な二項対立から逃れたり、耳障りのいい「嘘」に騙されないようにすることは、むしろ昔よりたやすくなっている。でも、そうならない。色々理由はあるだろうけど、インターネットのアクセスを多くの人々が、あの小さなスマートフォンに頼っている、というのは理由の一つになるはずだ。あの小さな画面で一度に摂取できる情報量は「物理的に」限られている。だから、スマホに最適化された表現は、断言型に、扇情的に、なりやすい。

つまり、「形」によって「コンテンツ」が変えられてしまう。結果、人々の行動は、コンテンツ以上に、スマホの形によって変えられてしまう。

これは、ネガティブな話だけど、ポジティブな話でもいっぱいスマホの「形」が人々の行動を変えているケースはたくさんあるはずである。

私自身は、どこまでいっても、ビットじゃなくてアトムである。今の所マトリックス的世界には多分生きていない。アトムである、物質である、私たちは、情報を入力する一番最後のところで、やはりアトム化された「形」としてのメディアを必要とする。だから、インターネットによりビット化時代が、デジタル時代が当たり前になった時、その空間で最強の端末、最強の形であるスマートフォンが出てきてあっと言う間に数十億人が携帯するようになった瞬間、やはりマクルーハン言う所の「メディアは、メッセージである」時代が到来した、と言えまいか。

雑な話になりました。続きます。


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