メディアの話、その35。王様のメディアとしての手品。

「このカードの中からどれでも好きなのを選んでください」

男は私たちにトランプの束を差し出した。

1人の女性が1枚を抜き取る。

「はい、みんなカードを覚えてくださいね」

ハートの6。

女性はそのカードを男に渡し、男はトランプの束の真ん中にカードを差し込む。8人の大人がその手を囲むように凝視する。

ぱちん。

男が指を鳴らす。

トランプの束の一番上のカードをめくる。

ハートの6。

8人の大人の目玉がまあるくなる。

なんどもやってもらう。

さっぱりわからない。種も仕掛けもあるはずなのに、わからない。

このシンプルなカードマジックを皮切りに、

男は、トランプ一束で私たち8人の注目を集め、

私たち8人は、あっというまに男の僕となった。

見事なカードマジックは、マジシャンを王にする。

シンプルなマジックであるほど、その王の権力は絶大である。

種もしかけもあるに決まっている。

なのに、わからない。なんどやってもわからない。

矢継ぎ早に華麗なカードマジックを繰り出されるうちに、

観客の私たちの心は、彼にかしずく。

カードと彼の手の前では、私たちは無力な子羊である。愚かで哀れな存在である。

マジックを見抜けない。マジックが本当の魔法に見えてくる。

いや、タネを見抜けないマジックは、ある意味で本当の魔法なのだ。

ひとりの人間に複数の人間が無条件にかしずく瞬間がある。昔から現在にいたるまで。そのとき、かしずく側の複数の人間の心理状況は、おそらくこのカードマジックを目の前にした私たちと同じだ。

私たちはマジック=魔法に弱い。魔法使いに弱い。裏を返せば、私たちは、どこかで魔法を求め、魔法使いにかしずきたい。私たちは、魔法使いに魔法をかけられた村人になりたいのだ。

この魔法使いと村人の関係こそは、よくできたメディアコンテンツと視聴者の関係に容易に置き換えられる。

優れたメディアコンテンツは、見るものを、聴くものを、虜にする。魔法をかけて、自分のしもべとする。映画、音楽、お笑い、小説、哲学、科学。ジャンルを超えて、優れたメディアコンテンツは、コンテンツそのものが意図するかどうかを超えて、魔法になる。

インターネットが発達して、マスメディアと視聴者との片道通行だった情報のやりとりが、双方向になり、あらゆるひとが「だれでもメディア」になれる時代になると、こうしたメディアコンテンツの持つ「魔法」の要素は、どう変化するか。

結論から先にいっちゃうと、魔法使いと魔法とかしずく僕たち、というのは、いまのネットメディアの世界を垣間見ると、実は、マスメディアと視聴者の関係以上に、しこかしこにあることに気づく。

いまは、「だれでもメディア」の時代である。

インターネットとSNSとこのnoteのようなサービスを活かせば、だれもが情報の発信者になることができる。女子高生の投稿も、日経ビジネスの記事も、NFLのスーパーボウルの中継も、スマートフォンの画像の上ではおんなじサイズの「メディアコンテンツ」である。無限に流れていくるメディアコンテンツの、どれに反応するのかは、受け手のあなた次第だし、並み居るメジャーコンテンツを押しのけ、人気者(炎上ふくめて)になれるかどうかも、送り手のあなた次第である。

と、いうと、ちょっとまえまでは「つまりマスメディアという一方的に情報を流すだけのメディアの権力者の力がなくなり、人々一人ひとりが、インタラクティブに、自由に情報発信をし情報受信をする、フラットで平等なメディア環境が用意された」てなことがいわれたりした。

でも、実際に「フラットで平等なメディア環境」が用意されたら、逆の状況がたくさん生まれた。

魔法使いが、魔法を使い、下僕たちがかしずく、という、「小さなマジックショーの会場」。ネット空間は、そんな会場が無限にある。

「フラットで平等なメディア環境」は、必ずしも「フラットで平等な人間関係」を生むわけじゃない。

「フラットで平等なメディア環境」は、魔法使いと魔法にかかった村人たち、という「教祖とその使徒のような人間関係」を量産をもするのだ。

どうせ魔法にかかるのならば、まず、現実の世界のシンプルで見事なカードマジックにかかってみよう。そして、自分がかくもたやすく魔法にかかるのだ、ということを自覚しよう。カードマジックにかかっても、命は奪われない。

カードマジック、こんどおしえてください、Kさん。

続きます。

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