メディアの話、その38。人間は情報の受信者として生き残る。

この連載をはじめたばかりの頃(といってもまだ1月もたってないんだけど)、「メディアの定義」を三内丸山古墳にひも付けてやってみた。
https://note.mu/yanabo/n/nb3ad81dcb642

このときは、わたしの「誰でもメディア」論を雑に展開しただけだったんだけど、街を歩いていて、「あれ、間違っていたぞ」と思っちゃったのである。

私のメディアの定義は、あくまで「メディア」=「情報の発信者」という定義であった。

通常何の注釈もなく「メディア」と書いたとき、多くのひとは「マスメディア」をおそらくイメージする。テレビ、新聞、雑誌、ラジオ。加えて書籍や映画。そしてもちろんさまざまなコンテンツの載ったインターネットメディア。

一方で、インターネットとブログやSNSサービス、スマートフォンの普及で、あらゆる個人や組織が情報発信できるようになった。つまり「だれでもメディア」時代がやってきた。

けれども、古代にさかのぼれば、三内丸山古墳もアルタミラの洞窟絵も、立派なメディアじゃないの。縄文土器だって、石器だって、当時の文明をいまに伝えるメディアじゃないの。

そんな話をこのときはした。

ただし、この話には抜けている視点がひとつあった。

メディアとはそもそも「情報発信」する側だけを指す言葉なのか。

メディアそのものの語源は、媒介だの媒体だの中間だの、である。

外部からの情報を受信して、受け止めて、なんらかの編集だの解釈だの加工だのを行って、発信する。

メディア=情報発信者という定義は、「受信→編集→発信」というメディアの機能の流れのうちの、「編集→発信」というアウトプットの行為のみを指している、ともいえる。

でも。

ここで疑問に思うわけである。もし、このメディア自身が機械だとしたらAIだとしたら、どうなるだろう。

つまりだ。AIが「編集→発信」という行為を自律的にこなしてしまうとする。いずれそうなるだろう。すでに一部はそうなっている。となると、メディアの役割は人間ではなくてAIに置き換えることができる。全部じゃなくても、かなりの場合、置き換えられる。

いま言われている「シンギュラリティ」に対する恐怖も、根っこが同じである。

自動車運転の仕事を奪われるかもしれない。外科手術の仕事を奪われるかもしれない。税金の計算の仕事を奪われるかもしれない。ウルドゥ語からスワヒリ語への翻訳の仕事を奪われるかもしれない。すべて、仕事=発信の役割をAIに奪われるかもしれない、という話である。

AIに仕事を奪われる。つまり、AIにアウトプットの業務を奪われる。なるほど。アウトプットの役割の大半はAIに奪われるだろう。

ただ、アウトプットの役割をAIに奪われる、というのが怖い、という感情が湧き上がるのは、裏を返せば、アウトプットの役割を追うのが、あるいはなんらかの発信を行うのが、人間の生きる「目的」と決めつけているからではないだろうか。

インプットとアウトプット、受信と発信は、一方向で終わるプロセスではない。ぐるぐる回っている円形のプロセスである。どっちが手段でどっちが目的かは当人が任意に決めているだけの話である。

インプットが手段でアウトプットが目的か。受信が手段で発信が目的か。以上のプロセスを「仕事」と考えちゃうと、まあそうだろう。

でも、たとえば、娯楽は、エンタテインメントはどうだ。

もちろん、アウトプットが娯楽になる、エンタテインメントになる、というケースはある。スポーツをしたり、趣味で小説を書いたり。

が、大半の人にとって、娯楽は、エンタテインメントは、アウトプット以上にインプットである。発信である以上に受信である。映画をつくるひとより見るひとのほうが多いし、カーリングをやるひとより見るひとのほうが多い。メディアの話に即して言えば、情報の受信から編集にかけてのプロセス。

アウトプットを「目的」とする発想は、ある意味で人間を労働装置としてみなす発想でもある。そして、文明は人間から労働を奪ってきた。肉体労働は、家畜に置き換えられ、そして機械に置き換えられた。そしていま、知的労働も、AIに置き換えられるかもしれない、というところに来ている。

仮にインプットこそ「目的」だと発想を変えたらどうだろう。インプットを「目的」にできるのは、いまのところ人間だけの特権である。機械もAIも、インプットを「目的」にはできない。インプットをされた情報だの指示だの資源だのを咀嚼して、なんらかのアウトプット=仕事を行う。それが、機械の、AIの「目的」である。

メディアの世界においても、仕事の部分、つまり情報の編集から発信のプロセスを人間からAIが主役の座が置き換わるケースがたくさんでてくるだろう。

けれども、それはいままでの文明が辿ってきた道と何も変わらない。驚くべきことではない。

どんなに優れた機械もAIも、インプットを目的とすることはできない。情報の受信を目的とすることはできない。「楽しむ」ことはできない。

もし機械が、AIが、インプットを楽しめるようになったら、そのときがターミネーター的世界の到来だろう。

そんな世界がくるかどうかはわからない。

けれど、ひとつわかったのは、「メディア」という切り口で世界をみるときに、少なくとも人間を主人公としたメディアの役割は、普通私たちがそうだと思っておる情報の発信、アウトプットのほうばかりではない。むしろ、情報の受信、インプットのほうもまた、メディアなのである。

情報の発信が生産=仕事、だとするならば、情報の受信は、消費=遊び、である。前者を目的とすることはAIでもできるが、後者を目的とすることは人間にしかできない。そして、メディアは、情報の受信と発信がセットとなってはじめてメディアである。なにせメディア=媒体なのだからして。インプットとアウトプットのはざま、それがメディアなのだから。

少なくともこれから私が「メディア」について考えるときは、情報を、コンテンツをアウトプットする存在としての「メディア」だけじゃなく、情報を、コンテンツをインプットする存在としての「メディア」についてもきっちり意識することにしよう。

これは、私自身が勝手に申し上げている「だれでもメディア」時代、という時代に対する、反逆の狼煙、でもある。「だれでもメディア」時代というのは、だれもがマスメディアのように情報発信ができる時代、という意味をたぶんに含んだ表現だった。

でも、AI時代が到来すると、むしろ人の居場所は、かつてのマスメディアに対する視聴者のように、情報の受け手、情報の消費者、情報の娯楽者、という立場のほうが大きくなってくるかもしれない。

さまざまなコンテンツを楽しくインプットする。つまり、みんな情報発信に汲々とするよりも、ひたすらオタクとなって、好きなコンテンツのインプットを楽しむ。

「だれでもメディア時代」を経て、POST-AI時代の人間は、インプットするメディア=オタクとして生きるのが主流、となっていくかもしれない。

何を言ってるのかさっぱりわからなくなったが、続きます。

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ムシ。国道16号線。三浦半島。鶴見川。御蔵島。カレー。パウンドケーキ。コスタリカのオオキノコムシ。オオ=大といっても1センチちょっと。

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