メディアの話、その71。天狼院書店と。

昨日、メディアと編集の話をしに、天狼院書店の新しいお店に伺った。

池袋西口のエソラの2階。このビルはテナントがとっても変わっていて、3階のCDショップでは、王子様系アイドルグループがミニコンサートをやっていてファンの女の子たちが蛍光スティックを振り回しており、4階にはドトールのやってる書店カフェがあったりする。

あ、ここ、仕事で使えそうである。

この日、私が話したのは、メディアは、そしてメディアだけではなく、多くのビジネスは、3つの構造で成り立っている、ということ。

まず、消費者と直接触れ合う「ハード」が存在すること。

真ん中に、消費者が消費する「ソフト」が存在すること。

そして、そのソフトをハードウェアを介して消費者に提供するためのプラットフォームが存在すること。

テレビならば、テレビ受像機、テレビ番組、テレビ放送技術とそのインフラ。

出版ならば、書籍や雑誌という紙の束、文章、出版物の流通システムと印刷技術。

音楽ならば、レコードやCDおよびステレオなどプレーヤー、音楽そのもの、CDやレコードの製造および流通。

といった具合である。

で、ポイントは、いずれの場合も、真ん中の「ソフト」の前に、まず新しい「ハード」の発明があって、それに合わせて「流通のためのインフラ」となる「プラットフォーム」の整備が行われ、最後に「ソフト」が投入されて、新しいメディアが出来上がる、ということ。

じゃあ、「ソフト」はどこからくるかというと、「前のメディア」をそのまま持ってくる。

テレビの場合は、まずテレビ受像機が発明され、続いて放送技術が整備され、ようやく放送局が開局する。

書籍も、雑誌も、新聞も、ラジオも、音楽も、映画も、基本は一緒。

だから、「前のメディア」は、「新しいメディア」が出てくると、なくなるわけじゃない。「新しいメディア」の「コンテンツの核」となって残る。

ただし、ビジネスの生態系が一新されるから、「コンテンツ」は残るけど、前のメディアのビジネスは結構崩壊したりする。

すでに起きていることである。

そんな時、「前のメディアの人たち」はどうすればいいか?

「編集」せよ。

何を「編集」するのか。

「コンテンツ」ではない。「コンテンツ」はすでにある。

編集すべきは、新しい環境における、ハード、プラットフォーム、コンテンツの新しい組み合わせ、である。

そういう例は、結構ある。

音楽市場が、そうだ。iTunesの台頭で、音楽はデジタル空間で一度ダウンロードで切り売りされ、CDショップが潰れ、アルバムを売るビジネスモデルが崩壊し、ミュージシャンもかつかつになった。が、これは、新しく台頭してきたネット空間の音楽ビジネスの当事者にとっても良くないことだった。つまり、古いメディアが衰退するのみならず、新しいメディアのコンテンツとなるべき人たちがかつかつとなる、というのは、要するに市場が大きくならないことを意味するからである。

音楽市場では、そこでインターネットとスマホをベースにした音楽販売空間において、曲を切り売りするモデルから、「定額制の聴き放題」ストリーミングサービスに転換した。

スポティファイはもちろん、iTunes を作ったアップルも、アップルミュージックで定額制のストリーミングを実行した。

今や、欧米では2014年来、音楽市場は再び成長基盤に乗り始めた。

詳しくは、音楽ジャーナリスト柴邦典さんのこの記事をご覧いただきたい。

インターネット以前の、レコードやCDの「アルバム販売」というビジネスモデルが、インターネット時代になり、1曲単位のダウンロード小売りになった瞬間、CDでアルバムを売っていたときよりも、音楽市場の規模は小さくなった。

が、欧米の音楽業界はここで諦めなかった。

インターネットを活用したメディアビジネスの特徴は何か。

「巨大なデータベース」に、「誰もが」「いつでも」「どこでも」「アクセス」できて「共有できる」ことである。

どうせ「形」がないのだから「所有」する必要はない。

ダウンロードというのは、データの「所有」であり、購入形式としては、CDと変わらない。

一方、ストリーミングは、無限の規模の音楽データベースに、月額制で好き放題にアクセスできる「利用権」を買うことだ。

所有ではなく、利用を買う。自分で図書館を持つ必要はない。どこでもいつでもアクセスできるのだから。まさにインターネットの特性を考え、ビジネスモデルを変えた。ここがポイントである。

同様の流れは、音楽だけではなく、映像でも、書籍でも起きている。

映像関係は、まさにHuluやネットフリックスが、書籍でもアマゾンが読み放題をはじめている。

所有から利用へ、となるのは、インターネットにメディアの主戦場がシフトしたときから、必然の道だったかもしれない。

では、このまま、あらゆるメディアコンテンツのビジネスモデルは、所有から利用権の購入へ変わるのか?

それだけじゃない。

そうでない道がある。

それは、あえて古いパッケージの非デジタルのメディアパッケージを核に据えながら、生身のサービスを販売していく仕組み、がある。

まさに天狼院書店が、書店ビジネスという古いメディアを内包しながら、それをやっている。

コンテンツプレーヤーとしては、ミュージシャンの手売りもそうだろう。

「ほぼ日」の「生活の楽しみ展」がお手本かもしれない。

最後までネットにならないもの。AIにならないもの。

それは、人間が「人と会いたい」「どこかに行きたい」という「大脳」じゃなくって「身体」が求める「欲望」である。

これまでの「メディア」は、むしろ「大脳」の欲するものを中心にデリバリーしてきた。それはしかし、まさにインターネット上で「所有」ではなく「利用」すれば済んでしまうもの。

そうでない「欲望」を、古いメディアにまとわせることができるかどうか。

二年前の、「シン・ゴジラ」「君の名は。」「この世界の片隅に」が同時に「映画館にわざわざ出かけて」しかも「聖地巡り」を伴って大ヒットしたのは、偶然じゃないかもしれない。

映画館にわざわざ出かけて、みんなでお祭りを楽しんで、その上、映画をさらにリアルに感じたくって、現実の場に足を運ぶ。

続きます。



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