メディアの話その86 仕事と学校がコンテンツになったら

新型コロナウィルスの感染拡大に伴う劇的な変化は何か?

それは、多くの仕事、とりわけ丸の内や六本木や汐留あたりの巨大ビルの中で行われていた「オフィスワーク」といわれる仕事と、大学の授業の大半が、ZOOMなどのリモート環境で行われるようになったことである。

個人的な話になるが、私の場合、勤めている大学の仕事のほぼ全てが5月から12月までZOOMで行われた。五百人の講堂授業も百七十人の大教室授業も百三十人のゲスト講師授業も六十人の論文指導授業も三十人の新入生のグループワーク授業もZOOM。

延べ人数で おそらく千五百人ほどの学生と直接的間接的に授業を行ったが、リアルで会った学生は0である。ひとりもいない。例外は、修士のゼミ学生一人に学生証を渡すときだけであった。

大学の会議もすべてZOOMである。つまり、郵便物を取りに行く用事でもない限り、大学のある大岡山に、電車を乗り継いで行く必要がこの半年間、あまりなかった。

実際は書籍の執筆や研究の資料などがあるから、大学には三密を避けて、ときどき行ったのだけど、週に1度あるかないか、である。

学生側からすると、もっとドラスティックである。今年の1年生はかわいそうに入学式がリアルでなかった。前期は学校への通学が禁止だった。このため、地方出身者の学生の多くは、地元に残り、実家からネットを介して大学の授業を受けることなった。おそらく、多くの大学が同じだったろう。

オフィスワークのほうはどうか。

日本を代表するコンピュータメーカー。いわゆるGAFA。世界的なコンサルティング会社。個人的に付き合いのある友人たちに聞いてみた。

すると、コロナ禍において絶好調(コロナ禍だからがゆえにより、という部分もある)あの世界的企業に勤める友人たちが、「オフィス、行ってないよ、というかいっちゃだめなの。2020年度いっぱい通勤原則禁止で、自宅仕事」とおんなじ答えを返すのであった。

ここで、コロナ禍をひとつのきっかけとして、すでに起きていた「変化」が眼に見えるようになった。

それは、オフィスワークと高等教育の「ある部分」が、リアルな場所などいらないし、物理的な移動もいらないし、ヴァーチャルなIT環境で十二分にこなすことができる、という現実である。

丸の内や六本木や渋谷のあのビルに入ったあの企業のフロアが真っ暗なのをみるとわかる。そしてその企業の絶好調ぶりをみるとわかる。すくなくとも、あの企業において、かつて日本の企業の時価総額を世界一に押し上げた、日本のオフィス賃料は「払う必要がどこまであるものなのか」、ということが。

さらにいえば、東京の中心にあるオフィスに通うための、鉄道を利用する物理的な負担、電車の料金と往復1時間の通勤時間、というコストも、人によっては不要である、ということが。

近代は、鉄道がつくった「物理的に」中央集権的な街の構造でできあがった。中心部のターミナルにオフィスとデパートのような大型商業施設が設けられ、郊外へとのびていく。住む場所は中心部に近いほど値段が高くなる。鉄道網の中心と周辺の不動産のコストは山の等高線のようになっているわけだ。

私たちの人生の中心をなす、仕事と暮らしは、「通勤」という概念によって縛られていた。「通勤至上主義」である。地方から出てきた学生にとっては、大学の通学も同様だろう。「通学」至上主義である。

どこに住むか?に関して、第一に考えねばならないのは、自分の趣味嗜好ではない。仕事場から、大学から、どの程度通勤通学に時間がかかるか、という時間コストと不動産コストのトレードオフを考えること。それで住む場所はたいがいの場合に決められてしまう。

近代において仕事が分業化され、オフィスワークとエッセンシャルワークとが分割され、金融と情報(メディアを含む)が、企業の行く末に大きな影響を与えるようになると、オフィスは鉄道のターミナルがある中央部に集結し、さらに集結し、を繰り返す。

日本に限った話ではない。マンハッタンのオフィスの集まり。ちっちゃな島に釘をびっしり刺したような風景は、よく見れば、異様である。あれが、象徴だ。あそこにいま「製造」部門はたとえば一切ないはずである。

ところが、コンピュータとインターネットの発達で、あらゆる情報がデジタル化され、コンテンツとして等価に流通できるようになると、まず狭義の意味でのメディア産業が、インターネット上に次々と収斂していった。インターネットがあらゆるメディアコンテンツのプラットフォームとなり、スマホがあらゆるメディアの再生ハードとなった。

手のひらに乗るスマホに、テレビもラジオも書籍も雑誌も新聞もエロも映画も音楽も劇場も大学も出会い系も手紙もそして電話もぜんぶおさまってしまっている。

で、マクルーハンがいったことはやっぱり正しくて、人間を拡張する道具はすべてメディアであるから、オフィスも学校もメディアとしてとらえれば、それは、ハードとコンテンツとプラットフォームに因数分解できる。つまり、オフィスビルと大学キャンパスがハードであり、同時にプラットフォームの一部でもある。残りのプラットフォームは鉄道を主体とするオフィスと自宅を結ぶ移動手段だ。そして仕事と教育や研究がコンテンツだ。

コロナ禍で強制的に、ハードでありプラットフォームでもある、大学キャンパスやオフィスビルに、移動のプラットフォームである鉄道で通うことができなくなったら、仕事と勉強というコンテンツは、なんと、ズームやチームスというインターネット上のサブプラットフォーム上で流通できるようになり、自宅のパソコンやスマホがオフィスや教室の代わりの便利なハードとして機能してしまうことがわかってしまった。

鉄道とオフィスビルという近代がつくった物理的だけど人工的=ヴァーチャルな環境が、インターネットサービスとスマホやパソコンというほんとうにヴァーチャルな環境に置き換わっても、仕事と教育というコンテンツのある部分は、ちゃんと機能するし、場合によると、より効率よく、効果があがる、ということがバレてしまった。

都市と鉄道という近代のヴァーチャルが、インターネットとZOOMとスマホというヴァーチャルに、ある部分置き換わって、それでけっこう機能している、ということになる。仕事と教育が「メディア」化した、ともいえる。みんなYOUTUBERのような状態で仕事や勉強している。ですよね。

と、ここまで書くと、なんだすべてヴァーチャルでいいのかよ、となるかもしれない。

そんなことはもちろんない。主に二つの理由で、人間はどこまでいっても物理的な環境、物理的な人との交わりを求め続けるし、必要としている。

現在、苦境に陥っている仕事の多くは、エッセンシャルワークであり、物理的に人が集まることではじめて成立する仕事である。

土木建築関係、製造業の現場、ゴミなどの収集、医療介護、幼児教育、自然保護、農業林業漁業、公園管理、インフラの整備、保守点検、各種NPO、大学でいえば研究や医学教育、ウェルネス関連などなど。

そして、現在ネットワークに乗らない各種事務仕事は、皮肉にも、いまのところZOOMなどに乗りにくい。企業でも大学でも人事や経理や総務や管理などを行うバックオフィスのひとたちは、通勤を余儀なくされたケースが多い。

また、サービス産業もそうだ。交通・観光、飲食店から夜の街からさまざまな娯楽、スポーツ、アミューズメントなどなど。

さらにいえば、人間にはそもそもが人と集まりたいという「本性」がある。「俺は一人が好きだ!」という例外的なひともいるけれど、大概の人間は、「集まりたい」。生き物としての人間は百五十人以下の小集団を形成することでサバイバルしてきた霊長類だから、集まりたいのは本性なのだ。

また、人間にはエロティックな本性もある。だれかと触れ合いたい。さわっていたい。くっついていたい。これは性的な要素だけではなく、上記の集まりたい本性の延長線上にもある。顔の見えるもので、いわゆるグルーミングをお互いにする。顔をくっつけて噂話をしたり、片寄あって飲み屋にはいったり、スナックでぎちぎちになりながら歌ったり。

そんな人間のくっつきたい本性がビジネスになると、それがスナックや洋品店や理容店になる。シャッター商店街に必ず残っている3つの業態だ。

以上は、おそらくどれほどネットの環境が整備されても、人間の肉体的な「本性」である限り、代替できないだろう。

だから、「集まれない」という状況は「メンタル」に悪い意味で効いてくる。私たちは「集まりたい」生き物なのだから。

なので、たとえば大学の対面授業を再開すべきかどうか、という議論は概ね論点がずれている。授業そのものが対面がいいか、むしろリモートの方がいいか、というのは、個別の問題である。実験や解剖は物理的に対面でなければ無理である。一方大教室授業や講堂授業は、リモートの方が実はよりアクティブでインタラクティブな授業ができる。グループワークも簡単にできる。こちらのほうはコロナ終息後も、リモート優先になるケースが増えるはずだ。

学生たちがつらいのは「授業が対面じゃない」からではない。シンプルに、友達と自由に大学に集まって会えないからだ。ぐちゃぐちゃいちゃいちゃできないからだ。

これは、オフィスワークをリモートで行っている人たちも同様だ。仕事はリモートでこなせる。でも、集まってぐちゃぐちゃいちゃいちゃが、仕事のコンテンツの出来不出来とは別に、人は欲しかったりするのだ。

で、その点のソリューションをセットで展開することがどうすればできるか。

この話にオチはない。結論もない。ちょっと考えて、取材してまた次を描きます。




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