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メディアの話その92 文明とウイルスと友引町と

新型コロナウイルスは、2019年12月に中国武漢でその存在が確認されてからほぼ3ヶ月で、世界200カ国以上に広がった。

中国の人たちを除けば、世界中の感染した方々、なくなった方々のほぼすべては「武漢」に行ったことがないだろう。そもそも武漢がどこか知らないだろう。武漢在住の友人もないだろう。中国人の友人を持っている人すら少数だろう。

でも、かかってしまう。感染者が一番増えたのは、死亡者数がいちばん多いのは、4月24日現在で、大陸でみると太平洋を挟んで中国とは地続きではない米国だ。

なぜ、新型コロナウイルス は短期間で世界中に広がったのか。

それは、現代文明が、結果として「ウイルス」と非常に親和性の高いかたちで進化してしまったからだ。

ウィルスは「メディア」である。比喩ではなく実際に。

ウイルスの正体は、「遺伝情報」だ。DNAないしはRNA。

その遺伝情報を、我々動物の細胞に注入して複製させて増やす。

メディアというのは3層構造でできている。

コンテンツ。ハード。プラットフォームだ。

番組。テレビやラジオの受信機。放送技術と電波網。

アプリ。スマホ。インターネット。

記事。新聞紙。印刷工場と配達網。

ぜんぶ3層構造である。

ウイルスの場合はどうか。

ウイルスは遺伝情報というコンテンツだ。

そのコンテンツを複製し、増やしてくれるハードウェアが、ウィルスが寄生する動物およびその細胞だ。

そしてこの複製したウィルスをブロードキャスト=放送してくれるのが、寄生した動物の行動である。これがプラットフォームだ。

ウィルスという遺伝情報のメディアコンテンツは、人間というハードウェアで複製され、その人間の行動パターンというプラットフォームによって、拡散する。

そしてウィルスが大きな問題を起こすのは、常に人類がグローバリゼーションという行動を起こしたときだ。

ヨーロッパからスペイン人がアメリカ大陸に天然痘をもってきたときもそうだ。ジンギスカンが制したモンゴルによって開かれたアジアとヨーロッパの人の流れが、ペストをヨーロッパにもちこんだ。

今回の新型コロナウイルス は、たった4ヶ月で中国武漢から世界の大半の国に伝染した。コロナウイルス は空気感染をしない。飛沫感染をふくむ、人と人との濃厚な接触がなければ、ひろがらない。

つまり中国武漢と世界は、人と人との身体的な接触を通じて、つながっている、ということだ。

1300年代1400年代のヨーロッパでのペストの大流行や、1493年以降のアメリカ大陸での天然痘やマラリアの猖獗ぶりをみればわかるように、ウイルスは、狭義の意味でのメディアより先に、グローバルなメディアネットワークとして機能した。

アステカ王国の民は、ヨーロッパの生活をなにも知らない。が、ヨーロッパから持ち込まれた天然痘のウィルスというメディアによって死んだ。

ベネチアのお母さんと子供は、恐ろしげなモンゴルの兵士たちを知らない。けれども親子は、モンゴルとヨーロッパがつながったことで伝わったペストというメディアにかかって死んだ。

そう。ウィルスは人間と関わるメディアのなかで、書籍よりも、文明よりも早く、印刷技術より、ましてやインターネットよりはるか昔から、圧倒的なスピードでグローバリゼーションというプラットフォーム上で流通するメディアであった。

1960年代のテレビの普及。2000年代のインターネットの普及。2010年代のスマートフォンとSNSの普及で、私たちは、自分たちのつくったメディアによるグローバリゼーションを果たした。いまやモンゴルの様子をヨーロッパ人が、ヨーロッパの様子を中南米の人が知るのはいとも容易い。人間の作ったメディアが、ようやくウィルスというメディアに追いついた。

そんな時代に、おそらくはスペイン風邪以来100年ぶりに世界を席巻するメディアとしての新型コロナウイルス が蔓延した。

すると人類の行動パターンは、皮肉にも「古代」に戻った。小さな集団で、なるべく他の集団と接触しない。行動を「古代」に戻すことで、つまり人の行動というプラットフォームを、グローバリゼーションの逆にすることで、ウィルスというメディアは人気がなくなる。つたわらなくなる。つたわらないと、ウィルスは自分で増えないから死ぬ。ロックダウンや8割自粛は、それをやっているわけだ。科学的には正しい対処法である。

けれども古代と違うのは、私たちはウィルスの代わりにインターネットと、人間の直接の大きな移動をともなわないロジスティクスネットワークの2つが、グローバリゼーションを維持している。

だから、私たちは脳みそと胃袋だけがグローバルなまま、運動系の筋肉と骨格はものすごくローカル、という、おそらく人類史上はじめての行動パターンを強いられている。

これは何に近いのか。

連想したのは、押井守監督の「うる星やつら ビューティフルドリーマー」の世界だ。主人公たちの暮らす「友引町」の時間が突如ループし、延々終わりなき日常を生きる。外部とは接触できない。けれども、コンビニには翌朝になると食料が自動的に補充され、ガスと電気は供給され、新聞=メディアが毎朝届く。

まったく同じシチュエーションだ。

続きます。



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