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『地球交響曲 ガイアシンフォニー』 上映会やってみた① ことの始まり

映画『地球交響曲 ガイアシンフォニー』は、龍村仁監督によるオムニバス形式のドキュメンタリー映画シリーズ。今ではそうめずらしくない「自主上映会」という一般市民の活動に支えられ約30年、9本の作品が誕生してきた。

20年前にこの映画に出会って、「いつかは私も上映会を主催したいなぁ」と ぼんやり思ってきたものの、「いつか」という夢物語みたいにしていた。

2021年。
突然に、そして自然に、夢物語を現実に落とし込むタイミングがやってきた!


わたしがなぜ『地球交響曲』の上映会をしたのか。どんなふうにして上映会の企画を進めていったのか。初めての上映会を開催するまでの記録を残しておこうと思う。


ガイアシンフォニーとの出会い


『地球交響曲』に出会ったのは、たぶん1999年ごろ。記憶が定かではないのだが、友人に勧められ、中央線沿線のミニシアター(下高井戸シネマだったか…)で立て続けに第三番まで見たような思い出がある。

その頃、私は弱っていて。

あることをきっかけに生きているのがなんだか嫌になっちゃって。何時間も泣いて、夕方になると涙を拭いて会社に行く、泣き虫お仕事ロボットみたいな毎日を送っていた。


それでもなんとか前向きになりたい、と模索する中、当時ヒットしていたスピリチュアルな本を読んだり


パワースポットと呼ばれる場所を訪ねたりもしていた。

たまたま同じタイミングで落ち込んでいた同僚と海に近い温泉を訪ねたこともあった。港に沈む夕日や海から顔を出す朝日を見たり、お地蔵さんが何体もいる近くの小さな山を歩いていたら、ふたりとも不思議と元気が出たのだった。お互い、落ち込み回復に役立った本を交換したりもしたけど、同僚が勧める本は私にはあまり響かなくて(相手も然り)。海と太陽と山と地蔵が私たちには不思議と効いた。言葉なきものにこそ人は癒されるのだ、と思った。

第一番〜地球の声が聞こえますか〜


私が最初に見た『地球交響曲』は第一作目。後に「第一番」と呼ばれるようになる作品だった。

とてつもなく大きなトマト木を水耕栽培で育てた人、
8000メートル級の山々に無酸素で挑み続けた人、
象と会話ができる人、
宇宙空間でひとりきりになった人、
ケルトの渦巻きの意味を語る人…

一見脈略のない、数人のすごい人たちが出てきて、偉業とも言われることをなしえた理由を語っていた。

彼らが語ることを相当ざっくりとまとめると

「地球に身を委ねているとうまくいく」

そんな感じ。

語られる言葉のスケールと確信に満ちた強さもさることながら、登場する人たちの慈愛に満ちた表情とあたたかな声を聞くだけで、抱きしめられるような、じんわりあったかくなるような不思議な感覚に包まれた。生きていい、大丈夫、と感じたような気がした。

第五番〜全ての存在は繋がっている〜

2004年公開の「第五番」は、試写会で一足先に見る機会に恵まれた(当時、私は雑誌編集の仕事をしていた)。

第五番のテーマは「誕生と死」。『地球交響曲』のプロデューサーであり、龍村監督の妻でもある龍村ゆかりさんの妊娠、出産の様子がおさめられていた。

ゆかりさんが出産したのは、自然なお産ができる産院。木の温もりのある部屋の中で、ゆかりさんが痛みに耐えながらも、家族や助産師さんたちと一体になって、いい時間を過ごしているのが画面から伝わってきた。新しい命の誕生を普段着のままで喜ぶ人たちがそこにいた。

私自身、産後ひどい乳腺炎になり、助産院でお世話になったことがある。は初めてたずねた助産院は、さっき産んだばかりという人が布団からすっくと立ち上がっているし、ほんわかとしたゆったりとした時間が流れていて驚いた。

だって、わたしの出産体験(2000年)といったら、普通の産院で分娩台に乗せられ、夫は出産に間に合わず、産後はの出血や痛みがひどい中、相部屋のカーテンの仕切りの中でひとり授乳もする…という、とっても寂しく辛いものだったから。

そんな自分の苦い経験や思いも相乗効果を発揮してか、試写を見ながらぐちゃぐちゃに泣いた。

試写会終了後、会場には龍村仁監督の姿があった。このあふれ出る気持ちを伝えたい、でもうまく伝えきれない気もして、誰かと話していて忙しそうだし…と、理由をつけてそのまま会場を後にした。

建物を出て駅までの道を歩いていると、なぜか!
自分の少し先を龍村監督が歩いていた。

今こそ話しかけないでどうする!と、自分が自分の背中を押していた。

走って追いかけて名刺を差し出して、「私の雑誌で連載してください!」とお願いしていた。


②に続く


※当時の連載はこちら↓の中ほどに掲載中 

 


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