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タブーについて語るということ

ある日、話をしていたら偶然、「ヒロシマ原爆」の話になった。

いや、正確に言うと自分がフッと本棚を見たら原爆の絵の書籍が目についたから自分から話を持ちかけたのだ。

私が感じている限り、オフィシャルな場での原爆の話はタブーだ。この話をすると大抵の人は会話をそれとなくやめてしまう。
それは「タブーに触れることは厄介」だからだ。

私は生まれが山口県の岩国市。広島からすぐ近くにあるし、米軍基地が同じ校区にあった。その広島近辺でも「原爆についての話題に対するタブー感」は否めない。

例えば、この時、実際に話したのは「地元では原爆投下の投下時間にサイレンが鳴っていたが 愛知(江南)ではならなかった」という事実だ。同僚の地元の子にも聞いたが鳴るという記憶がないらしい。地域性があるのかもしれない。岐阜では鳴らないと言った子がいた。すると東京では鳴っているという。その後も愛知でも空襲のあったエリアは鳴るとか、様々な意見が出た。

普段では話をしない様な人でも果敢に「我が地元では鳴っている!」と主張をしてくれた。

『どうしてもそれは伝えたい』と。

タブー = 厄介

タブーとされる話には「戦争」「宗教」「政治」「性」など様々ある。

これらがタブーとなるのは一言で言えば「厄介」だからだ。

これらの話はアイデンティティーに関わる可能性が非常に高い。そして、自身のアイデンティティーが傷つけられると感じた時に人は「怒ったり」「悲しんだり」「逃げたくなったり」する。
タブーの核心に触れると少なくない人々が、そういった感情を感じてしまうようだが、そうなるとその人は冷静ではないので、話は途端にややこしくなる。
必死に拒絶している状態の相手に対して、お互いの考えを認めさせ、共有しなければならないのだが、それには大層な時間が掛かるし、殴り掛かってきそうだったり、逃げ出そうとしたりする人に話を続けるのは非常に骨が折れる。

そう…やはり、厄介なのだ。

そんな思いをしたくないから人はその話題を徹底的に避ける。万一、そんな話になりそうな雰囲気を察知したら全速力で逃げ出すし、二度とその様な場所には足を踏み入れなくなる。

先の話で言えば、いきなり「ヒロシマ近辺以外はサイレンがならない(のではないか)」という不確定な「原爆×地域」という問題が投げかけられ、広島エリア以外の「鳴らない地域の人」「鳴っている地域の人」の両方が「原子爆弾に対しての活動が低い地域の人」というレッテルを貼られたと「感じて」ある種の奮起をしたという面があると捉えられる。

アイデンティティーの危機を感じて防衛行動に出たわけである。

サイレンを鳴らすのが「優」なのか?

私の場合は親も投下数年後に広島市内で生まれ、原爆ドームの下で遊んでいたくらいなので、原爆投下に対して身近である。広島は原爆教育は他県に比べて明らかに多いと感じるし、そのサイレンの話も自分が率直に感じた意見だった。

私の中でも「ヒロシマ関係人口のひとり」というアイデンティティーが存在するんだろうと思う。そう考えるとその特権意識の様なものが余計に他者の奮起を促したのかもしれない。

勝手に優位になった様な振りして「サイレン鳴ってないっしょ?」と見下して言われたのだ。これは溜まったもんではない。そりゃあ、奮起する。申し訳ない話だ。

……で、多くの場合はここで話は終わり。厄介だからね。


だから、タブーになってしまうのである。


更に踏み込まなければこの話は絶対に理解ができない。私自身のアイデンティティーも正しく理解してもらわなければ、本当にどう考えて発言しているのかがわからないのだ。

「戦争観」を最初に分けるときに「善・悪」「必要・不要」という賛否を問う必要がある。

今、「そんなもの悪に決まってるだろ」と思った人もいるかもしれないが案外そうでもない。国や生活を守る為に戦争は必要だと考える人は案外多い。

私の考えは「悪」「できれば不要と言いたい」になる。

「悪」の理由はシンプルで「人が人を殺すという行為が好きではない」というもの。ここには米国、ロシア、英国、中国、北朝鮮、韓国…などとの国家間での関係性や利害とは関係無く、行為そのものがすごく好きではない。

「不要と言いたい」については、どちらかと言うとロジェ・カイヨワの戦争論の影響が大きい。めちゃくちゃ乱暴にまとめると以下の通り。

1)資本主義が進み、更なる消費を生む為には既存の改編では不可能で、いちから作り直す為にも爆撃し更地に戻す事で「再建というニーズが生まれる」という考え方がある。

2)人間には「祭」という習慣があり、収穫祭などではそれまで一年間苦労して貯めてきた財産を全て投げ打って楽しむという事例が全世界に見られる。こらは祭の日には「倫理意識からの解放(または逆転)」が許されており、人間の本能レベルのところでこのシステムを容認しなければ社会制度が維持できないという風に受け止められている。その最大の例が国家間で発生する国家戦争であり、その間は固く禁じられていた「殺人」が倫理逆転しその数が英雄として評価される。また本来壊してはならない建物なども壊し放題である。
※異論は沢山あると思うがここではお許し頂きたい

つまり、「経済社会としても戦争を求め」「社会対応の息抜きとしての戦争」という必然性を人間が持ってしまっているというふうに考えているからである。
私はこれを「人間らしい愚かさ」として肯定はせど、何とかここから離脱できないものかと考えている訳である。

故に性悪説にも似た人間の愚かしさが存在するという前提で戦争というものを捉えている。

そこからようやくヒロシマの話に戻る。

私の意見は「原爆投下の是非に関しては大量に人を殺したという点で否定的」「そもそも戦争という大量殺戮は人間という生物の持って生まれた本能的、且つ、衝動的活動であるという事は認めるが、それでも尊くありたいと考える為、否定したい」「原爆投下は米国に対する恨みではなく戦争そのものに対するアンチズムで捉えている、ある日、一瞬にして地獄になったその情景はやはり人類としては反省すべきことであり、どこか加害者に自分も含まれているのではないかと考える面がある」「戦後、朝鮮戦争による特需などあり高度経済成長が発生した点からも戦争によって現在は出来上がったという事からも自身の戦争に対する関わりを全否定する事はできない」「しかし、『そのことを否定するのか?』という人には『尊くありたいので、(あえて)否定したい』と答える」「その上で、ヒロシマ問題は過去の話であり、学びのケースでしか無い。過去は変えられないし、私たちを縛るものであってはならない、よってヒロシマを知る事は尊い事だが、ヒロシマに対するサイレンどうこうや教育や文化的行動の現状把握程度の価値であり、それをやっていない地域だからと言って自尊心を傷つける必要などないし、反省する必要もない。たとえ今回の様に誤解されてもなんとも思う必要もない。そもそも、地元のサイレンを鳴らす、鳴らさないは貴方自身には全く関係のないことである。所詮、過去に起こった勉強材料である。記録と記憶として残すことは恨みを継続することと差別の増長を反面的に備えている。故にサイレンなども鳴らさず、忘れさせるというのもひとつの選択であるという意見も尊重できる。しかし、忘れることは同じ過ちを繰り返すことにもつながる為、できることであれば伝えていくべきではないか?」

およそ、こういった思想をしている。

ここまで読んでくださった方、もうお分かり頂けると思うが、タブーとは厄介だから触れられないのだ。こんな話…毎回していたら堪らないし疲れる。ここまで読んでくださった方もお疲れ様でした。

そうやって、世界は一定のレベルから成長できずに同じ過ちを繰り返しているので…ちょっとだけ頑張ってタブーを侵しながらお互いを理解しませんか?

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