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山口晃「アウトラインアナグラム」感想2/2ジャムセッション石橋財団コレクション×山口晃「ここへきてやむに止まれぬサンサシオン」展より

 アーティゾン美術館にて、ジャムセッション 石橋財団コレクション×山口晃「ここへきてやむに止まれぬサンサシオン」展( 2023/9/9〜11/19 ) を11/18に鑑賞しました。 とくに印象に残った「アウトラインアナグラム」について感想を書きます。前回記事の続きです。
前回記事はこちら  山口晃「アウトラインアナグラム」感想 ジャムセッション石橋財団コレクション×山口晃「ここへきてやむに止まれぬサンサシオン」展より1/2|やむやむ (note.com)
 
「アウトラインアナグラム」は、水墨山水図の中の東屋から見た風景、という設定でした。
そこで私が連想したのは以前に山口県立美術館で鑑賞した「5GVR山水長巻」です。

「山水長巻」とは雪舟の描いた画巻「四季山水図」(長さ約16mの巻物、国宝、毛利博物館蔵)です。
5GVR「山水長巻」とは、山口県立美術館がNTTドコモと共同で制作して、2021年から公開しているVR作品です。時間にして3分位ですが「山水長巻」の一場面をVRゴーグルを着けてVR体験できるというものです。(公開は不定期)
 これは、アート作品というよりも、教育普及と文化財保存や芸術鑑賞のデジタル化における一つの試みとして作られたものです。

 この二つを鑑賞して、普段、自分がどうやってものの遠近や距離感を掴んでいるのか、を改めて考えました。

 ・・・その前に、全く別の目的で、別の作家が、別の美術館で作った作品をならべて論じるのはおかしいのではないか・・・と思われる方も多いと思います。
自分の鑑賞体験からきた連想に従って書く、その理由を次に述べます。

 この展覧会全体から感じたことは、自分の体験に基づく感覚というものがとても重要なのだ、ということです。

 例えばこの作品「さんさしおん」 

 正面から見ると何やら筆で描いた線がある2枚の紙が見えるだけですが、少し移動して見る角度が変わると、ガラス面に「さんさしおん」と書かれた紙が写ります。
 そこで「ああ!さんさしおんって読める!」となるのですけれど、もし私が日本語を使わない人間でひらがなを知らなかったならば、何か文字のようなものが見えた、とは思うけど「ああ!サンサシオンね!」とはならないでしょう。
 また「さんさしおん」と読めたとしても、その意味がわからなかったら、文字が現れた驚きよりも「サンサシオンって何?」という疑問の方が強く残って終わってしまうでしょう。 
意味のある像が、見る角度によっては意味不明なものになる、あるいはその逆の現象もある、というこの作品の面白さは分からないことになります。

 この作品の感想は、せいぜい「この線の書き振りが良いですね、背景の墨の濃淡が絶妙ですね」という位のものです。

 私にとっては、セザンヌの絵と雪舟の山水画はこの程度の鑑賞レベルです( 悲しいことです… )

この展覧会は、石橋財団コレクションと山口晃氏のジャムセッションという企画で、氏は財団コレクションの中からフランスのポール•セザンヌ《サント=ヴィクトール山とシャトー・ノワール》と雪舟の《四季山水図》をセッションの対象に選ばれています。

 この二つの作品に関する山口氏の考察が文章とイラストで提示されていました。それを読んで、「ああそういうことなのか、この絵はこういう風に見るのか」と頭では納得しますが、とても自分ではそこまで理解が及びませんし、本当のところ実感は伴いません。

 というのは、私は絵心が全くなくて、絵がうまく描けないからです。( 絵筆をとったのは中学校の美術の授業が最後、デジタルツールを使ってお絵描きというのも、仕事でやり方が決められている描き方しかしたことがありません。)
 画家の対象を見つめる目と、それをカンヴァスや紙に写すときに行われている頭の中の働き、筆を運ぶ手の動きは、私の想像を超えているものです。

 ですので、この展覧会から得た感想と私自身の体験を照らし合わせて言えることは、「自分が普段どうものを見ているか」ということだけなのです。

 私の絵画鑑賞体験では、セザンヌより雪舟の作品の方を多く観ています。
といっても、雪舟の水墨画を特に好んでいるわけでも、詳しいわけでもありません。
 地元の山口県立美術館で雪舟関連の展覧会が定期的に開かれているので、良いとされているものだからとりあえず観ておこう、という感じです。
雪舟の描く人物画には、今にも顔の表情が動きそうな、ただならぬ雰囲気を感じます。しかし山水画は、正直に言って良さがよくわかりません。


山口県立美術館では定期的に雪舟関連のコレクション展が開かれている

2006年11月にあった没後500年記念「雪舟への旅」展図録。図が多く載っていて、解説が分かり易く、今でも時々読んで参考にしています。
石橋美術館 (現アーティゾン美術館 ) の四季山水図と、山口晃氏の解説にあった横山大観「四季山水図模本」(東京国立博物館) も研究図録として収録されています。

山口晃「アウトラインアナグラム」と5GVR「山水長巻」(山口県立美術館)をみて

5GVR「山水長巻」の公開は不定期で、直近では、コレクション展「新指定・重要文化財紹介 雪舟と雲谷派」( 2023/10/13~12/3 )の会期中は体験することができました。

 東京から戻り、山口県立美術館を訪れて再度、5GVR「山水長巻」を体験しました。 

 両者の見え方としては、「モスキートルーム」の外に掲示してあった「すずしろ日記」No,170 に描かれている、「大きな球に顔が半分めり込んで内側後方から見ている」のが「アウトラインアナグラム」で、「全球スクリーンの後方にいる」のが5GVR「山水長巻」と思いました。

 5GVR「山水長巻」では、VRゴーグルを被ると、雪舟風に描かれた水墨山水図の風景が目の前に広がります。映像は画巻のごく一部で、山道を登って峠の頂きへ到着するところで終わります。
 映像の視点は目の高さ、足元に地面、上を見上げると樹々の梢や空が見えて、風景は後ろに流れていきます。絵の中の人物ともすれ違うことが出来ます。画巻の左方に描かれた塔や民家の集落が、VR画面では、前方遠くに塔が見えて、民家の集落は視線を落とした崖下に見えるという具合です。頭を後ろに振り向けると後方の景色も見えます。崖は雪舟風の太い線で描かれた奇怪な形の大きな岩々で形成されています。

 巻物に水平方向に描かれた絵を立体にして90度向きを変えて、視界の全方向に展開される、という映像が「へえ~、ふうん、面白い」という単純な感想がまず第一です。
今回はさらに、見えている風景の遠近や立体が感じられるのはなぜか? について考えながら鑑賞しました。

すると、視界の上や横に広がる「空」の存在、物と物の間にあるように見える「何もない空間」が効果しているのではないかと考えました。

 私は普段、顕微鏡でものを見る仕事をしています。
以前からなんとなく、顕微鏡の視野とVRゴーグルを被った時に見える「空」や「何もない背景」は似ている、と思っていました。
 今回改めて考えてみて、それは視野の向こう側からランプが白く光っていて、レンズやディスプレイのガラス面が照らされて、あたかも何もない空間が無限に広がっているように見える、という点が共通していると気づきました。

これは「モスキートルーム」で体験した、真っ白い空間にしばらくいると壁との距離感が分からなくなって、自分が白い空間に包まれているように感じた感覚と似ています。

モスキートルームの壁に書いてある山口晃氏の言葉

 実際には、目と顕微鏡の接眼レンズ、目とゴーグルのディスプレイの間にはごく狭い空間しかなく、モスキートルームは何の変哲もない白い壁に囲まれた部屋です。

 また、顕微鏡を見ると、物が視野いっぱいに拡大されていようが砂つぶのように小さかろうが、体感として見えている物は眼前5センチ位のところ にあるように見えます。これはその位置に鏡があって、対物レンズと結像レンズが作る像がその鏡に映されて、それを接眼レンズを通して見ているからです。眼と観察している物の実際の距離は変わっていないのです。

 対物レンズを回して高倍率のものに切り替えた直後の一瞬は、物が近づいてきたように感じますが、すぐに目が慣れて、物との実際の距離を感じながら観察しています。「物が近づいてきた、びっくり!」とはなりません。
 これは、顕微鏡のステージ上にのっている物の位置は上下には動かない事を私は日々の経験上知っているので、物が大きく見えても近づいてきたわけではない、という判断が視覚情報より優勢になって、目の錯覚起こさせないのだろうと考えます。

ここで改めて、見晴らしの良い場所に行って、遠くの風景を眺めてみると、

写真では平板に見えてしまう
肉眼ではなぜ遠近感がわかるのだろう?

遠くのものが向こうに見えて、近くのものが手前に見えるのには、自分と物の間の周囲全方向に広がる空気というか大気の存在を感じているからではないか、と私は考えます。

 物との間の空間、何もない空間にある大気を五感で感じとっているからで、その経験を元に平面の絵画や、VR空間の遠近感を自分で再現している。
それは目の錯覚と同時に起こり、遠近感があるように仕掛けを施された画像、映像を見ると、その空間にありもしない大気を感じる、それが一層、目に見えるものに立体感と奥行きを与えている、と思うのです。

 テレビやパソコン、スマホが普及する前の時代、空調も照明ももっと少なかった時代の人々(せいぜい60年位前?) は、屋内に閉じこもっていては生活が成り立たないので、皆、否応なく外に出て自然の風物にさらされて生活していました。
現在の私より、ずっと五感が鍛えられていて、もっと鋭敏に色彩や光を感じたり、空間把握能力も高かったと想像します。

 その時代の人々は、雪舟やセザンヌの絵を、自らの経験からくる感覚でもって、自力でその面白さや趣を鑑賞できた人の割合が現在よりも多かったのではないか、と思います。

見る心得のある方々の助言を受けなくても、VRの技術を使わなくても、掛け軸や画巻の絵を立体に起こして、360度回転させて眺めて見ることが頭の中で出来て、遠近感や光や大気を体感を伴って鑑賞していた、理屈抜きでそういうことが出来ていたのではないかなと。

芸術を楽しむには、ふだんから五感や身体を鍛えておかないといけない、そこに現在では、デジタル技術やVRでの体験も加わったということで、アート鑑賞もなかなかやることがいっぱいで大変だ・・・という感想です。

余談 本物の雪舟《山水長巻》も見に行きました

後日、本物の《山水長巻》を毛利博物館へ見に行きました
毛利博物館 (山口県防府市多々良1-15-1)では、毎年秋になると、所蔵品の中から国宝が展示されます。今年2023年は10/28~12/4でした。

《山水長巻》第一巻の一部分のみですが展示されていました。初めて鑑賞するわけではないですが、山口晃氏の言葉を思い起こしながら、改めてじっくり見ました。
しかし良さを説明してみなさいと言われると・・・。四季山水図に限って言えば、時代が下った雲谷派の画家たちの作品の方が整ってきれいな気がするし、技術的にも見劣りしないように見えるし・・・。分からない。

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