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イエスはなぜ大審問官にキスしたのか

 2023年7月13日。ロシア文学者の亀山郁夫さんといえば、ドストエフスキーの5大長編をこのほど訳し終わったことで知られる人で、名古屋外国語大学の学長をしておられる。先月、亀山先生とほんの少しお話しする機会があったのでそれを少し。
 2022年、2023年と亀山さんが講師になった同大オープンカレッジに参加し、ドストエフスキーのテキストについてのお話をお聞きした。
 さて、「大審問官物語」というお話が『カラマーゾフの兄弟』の中にある。大学生の時に読んで以来、私の人生をひん曲げその後ロシアに関心を持つ原因となったお話である。この根本的な文学的動機ゆえにロシアの時事問題にいまいち乗れないまま還暦を過ぎてしまった。
 ところで亀山先生のお話の最後に「皆さん何か質問でも何でもありますか」という機会があったので、積年の疑問をぶつけてみた。
 「どうしてイエスは大審問にキスをしたのですか」。
そこで亀山先生は意外にも心情を吐露された。「… …僕は実はドストエフスキー、よくわからないんです。むしろショスタコーヴィチとかあの辺に関心があって… …」(!)受講生は約20人で、私が質問をするたびに亀山先生は「あ、また難しい質問をしようとしてますね」と冗談めかしてお答えになっておられた。社会人向けの公開講座の気安さもあったのだろう、斯界の権威とは程遠い気さくな対応だった。それはともかく質問の回答は要するに、さあよくわからんということであったと思う。
 ここからが本題。大審問官物語の舞台は16世紀のセビリア。かつてイエスに選ばれし者になろうと荒れ野で修業もしたカトリックの高位聖職者たる90代の大審問官は「レモンと月桂樹の香りが漂う夜」、魔女の火刑を終えたばかりの興奮の中、広場にイエスが現れたのを見る。彼はイエスを衛兵に捕えさせ牢獄に監禁する。その夜、大審問官は一人牢獄に降りてきて、『今さらなぜやってきたのか』と責める。イエスが人間に与えた自由はごく少数の選ばれた強者しか享受できない。圧倒的多数はその自由の重さ辛さに耐えられず、だれかにその自由を譲り渡そうとあがいている。我々はその自由を譲り受け、彼ら相応の羊の群れのような幸福を与えてやるのだ。お前の愛に応えられるのはごく少数の神のような者たちだけではないか。だが我々には圧倒的多数の無力な弱々しい人間こそが重要なのだ。人間を愛しているといいながら、まるでお前は人間を苦しめているではないかと非難する。しかも「私はすぐ来るだろう」といいながら1,000年以上お前は人間を放っておいた。その間、弱き者に幸福を授けるため我々は重荷を背負い続けた。お前が見抜いているように我々はかなり以前から「彼」に従っている。お前が荒れ野ですべて斥けた「彼」の誘い、奇跡と神秘と権威こそが弱き者の幸福のために必要だからだ。今さらお前が地上に来てすることは何もない。明朝お前を火あぶりにしてくれる――。
 で、この話を終始無言で聞き終えたイエスは、「突然、黙って大審問官に近付き、そして静かに血の気のない90歳の年寄りの唇にキスをした。これが返答のすべてだった。老人はぶると震えた。唇の端で何かが震えた。彼は牢獄の扉の方へ歩み、扉を開けた。そしてイエスに言った。行け。そうして二度と来るな。絶対に、絶対に来てはならん!」
 これがめちゃくちゃ大胆な大審問官物語の要約。
 ここまで来て亀山先生への質問「なんでイエスは大審問官にキスをしたのですか」の事情がわかる。そして亀山先生からは明確なお答えをいただくことができなかった。
私は少し前から疑問に思っていたことがあってそれを話してみた。大審問官は「明朝お前を火あぶりにする」といいました。しかし大審問官は彼がイエスであることを知っています。つまり神です。神は不死です。死なないのです。火あぶりにすることはできません。よって、大審問官はできもしないことをしようとしているのです。なぜでしょうか。
 これは本当のことですが、亀山先生は「あ!そうですよね」と驚かれました。
 そこで私が考えたのは、
その1:イエスのキスは「私を焼き殺すことなんてできないことを知っているはずなのに。あなたっておばかさんねえ」という意味でしょうか。まああるかもしれません。ドストエフスキー一流のユーモアなのかも。しかし内容の深刻さからみてこの説明は少しおふざけが過ぎるでしょう。
その2:自由を投げ出さざるを得なかった無数の弱き人間たちへの大審問官の憐憫、愛情をイエスは嘉された。つまり自らが与えた自由を受け止めることのできなかった弱き人間への愛情ゆえに自らを非難する大審問官ですら、イエスはいとおしく相対し祝福した。つまり自らに向けられた大審問官の非難をイエスはむしろ愛情表現として受け取った。だからキスした。さあ、どちらでしょう。
 こういうお話の方がプーチンやらゼレンスキーやらのお話よりも乗れる。不謹慎かなあ。

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