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今年一番の物故者・林聖子さん

かつて長野県内で仕事していた際、塩尻市立図書館の事業「信州しおじり本の寺子屋」をご紹介いただき、この事業を本にして紹介する仕事をさせていただいた長田洋一さんは、河出書房新社の文芸誌「文藝」の編集長を務められた出版人で、県内にお住まいだった。本を書くためには取材が必要で、長田さんのお話を幾度か聞く機会があった。その折りに、現役の編集者時代に小説家の中上健次ら多くの作家たちと夜の新宿でたくさんお酒を飲んだお話を聞いた。その話の中でしばしば出てきたのが、「風紋」というバーの名前だ。
 その「風紋」の女主人で、今年93歳で亡くなった林聖子さんと風紋に通った作家、編集者、学者らの交友を記録したのが、森まゆみ『聖子 ― 新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』(亜紀書房、2021年)で、最近読み終えた。昭和の出版文化、原稿用紙とペンを商売道具にする人々が小さなバーに通っては言葉を交わし、けんかし、作品の構想を紡いでいくのを魅力的な女主人が見守った物語で、とても興味深く読んだ。父親は大正時代の大杉栄らアナキストとの交流があった洋画家の林倭衛(しずえ)。バーには太宰治やら檀一雄、竹内好、井上光晴、古田晁(あきら)、粕谷一希ら数えきれないほどの作家や出版人、編集者の名前が並ぶ。
 とまあ、ここまではごく普通の感想文。しかし、私事にわたるが私が本当に驚いたのは、林聖子さんにゆかりのある土地や学校の名前。彼女が入学して1年間だけ通った小日向台町小学校はわが母校。出入りしていた粕谷一希はじめ何人かは、これまたわが母校・小石川高校OBで一つのグループのようなものをつくっていたようだ。長田洋一さんとのご縁が生まれた筑摩書房創設者の古田晁は長野県塩尻市出身。そもそも「風紋」は、東京外信部の内勤や社会部にいた時分に先輩に連れられて行ったゴールデン街の近くにあった。彼女が一時住んだという小日向水道町は、近くを流れる神田川に沿った町。「元は黒田小学校といったんじゃないかな。近くに服部坂というのがあったわ。その谷を挟んで反対側の丘の上に鳩山一郎さんの屋敷があった。」と彼女は話したと森まゆみは書いているが、1945年3月の空襲で内部が焼けた黒田小学校のコンクリート造りの校舎で1947年にスタートしたのが、私が卒業した文京区立第五中学校である。また「鳩山一郎さんの屋敷」のなかで私は夏、よく蝉取りをした。
 ぜひ、お話をしてみたかったものだが、残念。今年亡くなった。
 引っ越し好きだったという父親に翻弄され、小学校を8回転校した。小日向台町小学校には1年生の時だけ在籍していた。昭和の初め、水道町の家を出て、服部坂を上っては通学していた1年生の女の子の姿が浮かび上がる。一年間だけとはいえ、先輩には違いない。一度もお会いすることがなかったとはいえ、奇縁を感じる今年一番の物故者だなあ。

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