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無知の幸福と知恵の悲しみ

グリボエードフ『知恵の悲しみ 喜劇四幕』(除村吉太郎訳、平凡社、「ロシア・ソビエト文學全集 古典文学集」pp.257-309所収、1966年)

 実に長くて実にどうでもいい話。名門貴族の出で外交官だったグリボエードフが1823年に書いた古典ブンガクである。いつか読まなきゃいかんなあと学生の頃から(40年前!)思っていた古典をやっと読んだ。翻訳がなかなか見つからないので放っておき、仕事が忙しくて余裕がないときはすっかり忘れていたこともある。しかしこのたびようやく、えいやっと名古屋市立図書館の蔵書検索をしたら、市立図書館群の旗艦ともいうべき鶴舞図書館にあった。なんと1966年に発行された全集に収録されていた。あまり駆り出された形跡がない。そりゃそうだろう。その古本を近くの図書館まで運んでもらって借りだし、読み終えた。

 いったいどうしてこの喜劇を読む気になったのか。それは、実は小説『未成年』の主人公の幸福な少年時代の記憶の象徴、小道具として使われているからだ。そして主人公の実の父親でありながらニグレクトした零落貴族の男が、ある貴族の家の家庭劇でこの喜劇の主人公を演じるのを回想する場面があるからで、しかもそれが実に美しく忘れ難かったからだ。

 『未成年』はドストエフスキーの五大長編の一つ。先ごろそれら五作品の全部を訳したロシア文学者の亀山郁夫さんによると、「失敗作」とされてきたということだ。その理由はいろいろあるがそれはともかく。

 結論からいうと、私は『未成年』が気に入っている。『罪と罰』などよりよほど好きだ。「失敗作」云々は、気に入っている私からすればどうでもよいのだ。登場人物がとても個性的で魅力的なのも好きな理由の一つだ。で、なぜこの小説の小道具に『知恵の苦しみ』が使われたのか。読み終えてみて「ははーん」と納得したことがある。

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 ここまでの前置きがまず長い。実に長い。『未成年』の主人公はアルカージーという20歳ほどの青年。本当の父親は貴族のアンドレイ・ヴェルシーロフ。アルカージーの母親はソフィヤ。ヴェルシーロフの領地の屋敷で働いていた農奴の娘。父親はアルカージーが生まれるか生まれないかのうちに、ソフィヤを農奴のマカールに因果を含めて嫁がせる。ひどいやつだぜ。育児は母親と伯母のタチヤーナ・パーヴロヴナに任せっきりにして国内外を遊んで回っている19世紀ロシアの貴族の男。官職も軍の階級もない。しかし教養はある。結婚はしていない。貴族のサロンでは知的かつ話題が豊富で所作も洗練されているので人気がある。そういう男が、たまに領地に帰ってきてはまたいなくなる。アルカージーはソフィヤからは愛されるがタチヤーナからは厳しく躾けられる。父親が恋しくて仕方がないアルカージーは、たまに帰ってくるヴェルシーロフの姿がまぶしく誇らしく映る。

 ここでやっと、『知恵の悲しみ』が出てくる。

 父親が知人の貴族の家で催される家庭劇『知恵の苦しみ』の主人公チャーツキ―の代役を急遽引き受けて一生懸命練習し、舞台でも立派に演じ拍手喝さいを浴びたときのこと。いつもとは違うよそいきの素敵な服を着せられて陶然と演劇を眺めていたアルカージーは、父親の最後のきめ台詞「馬車をまわせ、馬車を!」を聞いて、「夢中で手をたたき、あらん限りの声でブラヴォを叫びました」。

 しかし幸せな日々は長くは続かない。ヴェルシーロフがアルカージーを金持ち貴族の子弟を対象にした私塾に入れたところから、私生児であることでいじめが始まる。貴族ではない彼を受け入れるのだから割増料金を出せという私塾の経営者の要求を断る手紙が届くと、経営者は「貴様は良家のお坊ちゃまたちといっしょにいてはならん。貴様は卑しい生まれで、下男と同じなのだ!」と髪の毛をつかんで引きず回された。

 どうしてこんな仕打ちを受けるのか、子どもの僕には全然わからなかったと家族の前で話すアルカージーの姿は読んだ私に深い印象を残した。

 なぜあの光り輝くようなヴェルシーロフはおかあさんと結婚しなかったのか。かわいそうなお母さん。父親を責める一方で、容姿端麗で教養に溢れるヴェルシーロフを慕う気持ちも募る。あのころ、僕の父親は立派なんだぞと級友に自慢すると、じゃなんで苗字が違うんだいと聞かれて答えることができなかった。だって自分でもどうしてかわからなかったんだもの。

 いじめに耐えきれなくなったアルカージーはある日、寄宿舎から逃げ出して、ヴェルシーロフのところへ歩いて行こうと決める。「外へ出よう。あとはどんどん歩いて行くんだ。」

 決行の夜がやってきた。そっと扉を開けると、目の前にいきなり暗い暗い夜が広がり、風がいきなりぼくの頭から帽子を吹き飛ばしてしまったのです。ぼくは出ようとしました。すると向こう側の歩道で酔っ払いの怒鳴りちらすものすごいしゃがれ声が聞こえました。僕は立ちすくんで、そっと階段を上り、そっと服を脱いで、包みを解き、寝床に突っ伏しました。そしてその瞬間から、僕は考えるようになったのです。おとうさん!その瞬間に、ぼくは下男であるばかりか、その上に腰抜けだと意識して、そこからぼくの本当の正しい成長が始まったのです。

 タチヤーナ「ああ、今こそお前という人間がわかりましたよ!そうですとも、お前を靴屋の弟子にやるくらい、アンドレイ・ペトロ―ヴィチには簡単にできたはずですよ!手職を仕込まれなかっただけでも、お前はありがたいと思わなきゃいけないんだよ!」

 アルカージー「たしかにぼくは、靴屋の弟子にやられなかったことだけで、どうしても満足できないほどに根性が卑しいのですね。ぼくに父のすべてをくれ、ぼくに父をくれ、なんという要求をしたものだ、これがさもしい下男根性でなくてなんだろう?」

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 この小説の印象的な場面はいくつもあるけれど、この家族の会合もその一つだ。

 すごく長い引用をしたのは、このアルカージーが二つの階級の間で宙ぶらりんになった人間の不幸をあらわしていること、そしてヴェルシーロフという男が、深い教養と優れた知性を持ち合わせながら仕事をせず無為に生き、資産がなくなると金になりそうな話を聞きつけ嗅ぎまわっては知略を弄して甘い汁を吸おうとする貴族の腐敗臭を漂わせているからで、それが『知恵の悲しみ』が描いている19世紀初めのモスクワの貴族社会の傲岸不遜、虚栄、無為、無能、多弁、醜悪、愚かさを批判するチャーツキ―の振る舞いと二重写しになっているからだ。しかもチャーツキ―も、それを演じたヴェルシーロフも結局はその腐敗臭から逃げ出すことができず底なし沼に沈んでいくことが暗示されているからだ。

 とてつもない金持ちたちには何も打ち込むものがなく、享楽にばかり金をつぎ込む様子を描くことで、民衆の貧困の深さ恐ろしさが一層際立って印象付けられる。ここまで格差が広まってしまうと、もはやどうにもならなかっただろうな。

 ソフィヤの夫の農奴マカールは結局家を出て巡礼になり、地方を巡ってはキリストの救いの話を広めまたは集める旅をする。一方で、欧州で身に付けた教養がありながら結局は無為に沈んでいく貴族のヴェルシーロフ。その対照をいつかアルカージーが和解させ結び付ける役どころを担うことになるのかなとも思うが、小説はそこまでは描いていない。ただ、知恵を持つが故の悲しみは、愚か者にはわからない。

 『知恵の悲しみ』の序言は知られている:

 「運命は 気紛れな悪戯ものよ 自分で勝手にこう決めた ― 愚か者には無知の幸福 賢い者には ― 知恵の悲しみ。」(p.258)

 悲しみをいだいた知恵者は、失意のうちに孤独の中で死ぬ。それがヴェルシーロフの運命だ。未成年のアルカージーの前には、無学な民衆の中に息づくキリストの教えを集めまた伝える巡礼マカールの生き方と、西欧的インテリ貴族・ヴェルシーロフの生き方が示されている。未成年とはすなはち若いロシアそのものであり、腐敗した西欧のあとを追いかけ無為の中で滅びるのか、それとも民衆のもとに立ち返りキリストと共に生きる道を選ぶのか。それがドストエフスキーの問題提起かなとも思う。

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