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どうしたら終わるのか

戦争が2年半続いている。これ以上人が死んだり怪我をしたり、家を奪われ故郷から追い払われる人が出ないように、とにかく早く戦争をやめてほしいと多くの人が望んでいる。

 だがそもそも、どうして戦争が始まったのか。スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』(富永晶子訳、NHK出版新書、2024年)が取り上げているテーマだ。

 トランプもバイデンも、キッシンジャーもチョムスキーも、戦争が始まった最初の頃、この際、ロシアが欲しがっているウクライナ東部を割譲して和平を目指すべきだとの意見だったとされる。しかしウクライナは断固拒否し、「英雄的な戦い」を続けている。ウクライナが戦闘を継続できるのは、米国と欧州諸国が支援を続けているからだ。ウクライナ政府は欧米から財政と兵器の支援を受ける。

「侵攻開始後の数週間、われわれはウクライナがすぐさま制圧されることを恐れていた——が、いまとなっては、真に恐れていたのは、その反対の事態、つまり、ウクライナが即座に敗北せず、戦争が延々と続くことであったと認めざるを得ない。われわれはウクライナがあっという間に瓦解したのち、適切な怒りを表明し、損失を嘆き悲しみ……それまでと変わらない暮らしをひそかに望んでいたのだ。小規模国家が、残酷な侵略に意外にも果敢に抵抗している。これは本来であれば素晴らしいことだが、実際のところ、われわれはウクライナの奮闘を持て余し、その知らせを恥じるかのような感情を抱いているのだ」(pp.80-81)

 戦争を終わらせる方法は書かれていない。ただ、ウクライナがこの戦争に勝つことは難しいけれど、しかし敗れてはならないというのが、ジジェク氏の考えのようだ。なぜなら、ウクライナ東部だけでロシアは満足しないから。だから戦闘を続けるウクライナを「英雄的」で、その戦いを「偉大だ」(p.104)だと賞賛する。

 ロシアが望んでいるのは、ウクライナ東部だけではない。「ロシアの外務大臣セルゲイ・ラヴロフは、NATOは1997年以降に加わった全加盟国から撤退すべきだと主張し、ヨーロッパ全土を非軍事化することが最大の解決策だと示唆した」(pp.61-62)。

 ウクライナ東部だけでなく、ロシアはウクライナ全部の「非ナチ化」と欧州の「非軍事化=NATOの無力化」を求めている。ジジェク氏の理解によると、ロシアがやっていることは①本来、主権国家であったことがなくソ連の一地方に過ぎなかったウクライナがレーニンの錯誤により「共和国」の地位を与えられたという歴史的誤りを矯正し、②ウクライナの非植民地化、すなはち欧州諸国の「新植民地主義」(第二次世界大戦後に独立を達成した旧植民地地域に対し、経済援助などを通じて従来の支配・従属関係を維持しようとする動き)に立ち向かう第三世界の味方としての地位を確立する戦略だ、という(p.76)。このロシアのプロパガンダは、西側がアフリカ諸国やアジア、中東でいかに(殖民地への)支配権を行使したかという苦い記憶をうまく利用している。イラクへの爆撃の方が、キーウへの爆撃よりもましだとでもいうつもりか、と。ヨーロッパを守るというウクライナの誇り高い宣言に対し、ロシアは、我々は過去及び現在ヨーロッパの犠牲となっているすべてを守ると答える。ロシアとウクライナの戦いは、そういう意味を持っているのだという。

 それゆえこのイデオロギー闘争に勝利する好機をつかみたければ、ヨーロッパは自由主義・資本主義に基づいたグローバリゼーション・モデルを根本から変える必要がある。

 この本の主張は、①プーチンがその地位にある限り、戦いは終わらない②ウクライナは領土割譲などの和平提案を断固拒否し、戦闘を継続すべきである③欧米は事実上すでに進行しているロシアとのイデオロギー闘争に勝つために、現行の新植民地主義=グローバリゼーション・モデルを改めなければならない、というふうに読める。

 それでもプーチンとその一味とそのほかの「もの言わぬ」ロシアを一緒くたにしてはならない。それは結局、プーチンの術中にはまることになる。プーチンへの批判を続けるロシア人を断固擁護しなければならず、プーチンのロシアとの戦いは、「偉大なロシアの文化を、それを悪用する者たちから守っているのだと主張すべきである」(p.131)。

 それにしても、である。プーチン氏は、「国家には主権を持つ国と征服された国という二つのカテゴリーがある」(p.102)と考えているという。主権を持つ国とはどこか。政権寄りの、つまりプーチン氏の意向をオウムのように繰り返す政治解説者ドミトリー・エフスタフィエフはチェコの報道機関のインタビューで「新生ロシアは、きみたち、つまりヨーロッパをパートナーとは見なしていないことをはっきり示している。ロシアのパートナーは、アメリカ、中国、インドの三カ国だ。ヨーロッパは、われわれロシア人とアメリカ人との間で分配される戦利品なのだ。君たちはまだ気づいていないが、それが着々と実現に近づきつつある」(p.62)。

 いったいどうしてここまで根性がひんまがってしまったのか。なぜこのような狂気の沙汰が国家指導者の思考様式になってしまったのか。ジジェク氏は説明を試みているが、それはプーチン氏の頭の中をスプーンで引っ搔き回しているような気持ちにさせるばかりで要領を得なかった。

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 別の話。領土を守るために人が死ぬ。だがそもそも国家は国民の生命と財産を守る約束だ。しかし一方、国家は領土が奪われるのを黙認しない。そこで戦闘が起き人が死ぬ。

 国家であるためには、①永続的住民、②一定の領土、③政府、④他国との関係を取り結ぶ能力(外交能力)の四つの要素が必要だということになっている。ただし、上の事実から、れらの条件は国家にとって「等しく」必要なのではないということだ。

 領土を守るために住民の命が奪われることは日常的にある。しかし住民の命を守るために、領土割譲を認めたという事例をほとんど聞かない。

 このことは、「永続的住民」よりも「一定の領土」の方が、国家にとって重要なのだと考える根拠を与える。いや、正確ではないな。「永続的住民」というのはきっと、国家にとってはわたしやあなたの一人ひとりの生身の人間のことではなく、「マスとしての住民」なのだ。戦争が始まる前、ウクライナの人口は約4,000万人だった。4,000万人の生命と財産を守るために例えば数万人の戦闘員が生死をかけて、「一定の領土」を防衛するために戦い、死ぬことは国家の存続にとって必要な活動だ。国家というのはそういう前提で成り立っている。これは政治学の基本なんでしょうね。

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