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映画『Perfect Days』に悩む

映画『Perfect Days』(ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演、2023年)を鑑賞。

 2023年最後のめっちゃ長くてネタばれの書き込み。

 公衆トイレの清掃を仕事にする中年の独身男の日々の暮らしの静かさと時折訪れるごく小さな波紋のお話、といえばいいのか。

 生活の要素はひどく様式化され、毎日、機械のように繰り返される。自宅の古いアパートは東京・浅草近辺の下町。早朝、窓の下の路地を掃除する高齢女性の箒の音で目覚める。布団をたたむ。階下に降りて歯を磨く。鉢植えの植物に霧吹きで水をやる。仕事着に着替えアパート前の自販機で決まった銘柄の缶コーヒーを買う。清掃用具を満載した自家用の古い軽ワゴンの運転席に座り、『朝日の当たる家』みたいな大昔のアメリカのポップスをカセットテープで流しながら運転する。高速に乗り渋谷区内の公衆トイレに到着する。便器や鏡を磨き、床を箒ではく。仕事ぶりは極めて丁寧で厳密。手を抜かない。昼時にはいつもの神社の石段を登り、決まった場所に座る。コンビニのサンドイッチと500ccの紙パックの牛乳の昼食を済ませ、境内の大きな欅の木を下から見上げるように古いフィルムカメラで必ず撮影する。そして午後、数カ所の公衆トイレを掃除して仕事を終え、自転車で昼下がりの銭湯の一番湯に浸かる。駅近くの馴染みの居酒屋で酎ハイのロックを一杯だけゆっくりと味わって、アパートに戻る。帰宅すると、布団を敷き、寝転がって文庫本を熱心に読む。眠くなればスタンドを消し眠り込む。読み終えると、これまた顔なじみの古書店に行き、一冊100円の箱から次の一冊を慎重に選ぶ。フォークナー、ハイスミス、幸田文。フィルムのプリントを頼んだ写真屋に寄る。そうしてたまに、艶っぽいママのいるスナックに顔を出す。

 こんな毎日を追うシーンが3度、繰り返される。セリフはほとんどない。

 何かが不満だとか、何かに熱中しているとか、いわんや恋愛とか暴力とか政治とか経済とか、そんな話は全然出てこない。ひたすら、まじめに仕事をする中年男のつつましやかな生活の記録だ。

 これだけ見せつけられると、さすがに少しは考えさせられる。つまりこれはなんだ?

 公衆トイレで仕事をする彼の脇を、町の人々はただ急ぎ足に通り過ぎる。まるで何かに追いかけられているように見向きもせずに去っていく。子どもたちだけはかすかに彼の姿を認め、その仕事の意味を理解したように手を振って去っていく。

 あの忙しそうにしている人たちはいったい、何によって生きているのか。富や地位や名誉を求めてか。そんな大それたことでなく、とにかく働いてお金を稼がないと生活ができない。恋もできない。先々のことを考えて、みんなそうしている。とにかくみんなと同じように働く。そりゃ忙しい。しかしそうすることで心の安定が得られる。さもそう弁解しているかのようだ。

 いくつかの小さな事件が波紋を起こす。しかしそれでも男の心の中の静穏、平穏さを乱すことはほとんどない。「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテイル」である。

 映画を鑑賞した後、この男について考えている。まずは宮沢賢治のこの有名な詩を連想した。人は何かのために生きるものだと誰もが思い込んでいる。しかしこの男の「何か」は、どうもみえにくい。

 で、私の考えは、トルストイの『人は何によって生きるのか(чем люди живы)』というお話に行きついた。靴屋に拾われた男ミハイルが靴づくりの仕事を教えられ黙々と働き続ける。5年間に笑ったのは2度だけ。ある日、客の女と女の子の話を聞き、3度目に笑った。女たちが帰った後、靴屋にいう。「神に与えられた『人にあるものは何か、人にないものは何か、人は何によって生きるか』という三つの問の答が得られた。実は私は天使だ。神の罰を受けたが、今天に帰る」。そしてミハイルは去った。

 ミハイルが靴づくりを続けたのは、罰として神が与えた問と格闘するためだった。だがミハイルが見つけた問の回答は我々には示されない。それは神様にしかわからない。

 映画の中で、まるで音楽の休符のように、木漏れ日が揺れるモノクロのシーンが繰り返される。男が神社の境内で撮影する写真に写る木漏れ日だ。木漏れ日の影はいつも変わらないようでいてどこかいつも違っている。それは、同じように過ぎていく男の毎日が、やはりそれでも少し違うことを暗示しているのだろうか。この男は何によって生きるのか(чем этот жив)。その答えは神様にしかわからない。ううむ。欧州映画のノリだなあ。

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