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七三一部隊のお隣だった天理村

 エイミー・ツジモト『満州天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶 天理教と七三一部隊』(えにし書房,2018)。開拓と民間防衛、軍務支援のための人員確保と同時に凶作に苦しむ内地の零細農民救済などの課題解決のために昭和10年代に政府により満州への開拓移民が大々的に募集、奨励、実行された。この中に天理教団信徒の移民があり、それを米国人ジャーナリストがインタビューを中心にまとめた記録。

 天理村は、隣に七三一部隊の「実験棟」がある点で特異だ。その施設を囲む「一周約5キロの城壁をつくらせた」(p.204)という建設工事から始まり、村は敗戦前後の証拠隠滅目的の破壊作業に至るまで、この部隊が満州で行った組織的犯罪行為に加担させられていた。開村の場所の設定段階から関東軍の意向が働いていた。

 「我々は関東軍の命令に従うしかなかった被害者だ」という生存者が多いなか、著者は「戦争犯罪に加担した」と話す生存者の証言を書き留める。「せかいいちれつ みなきょうだい」という開祖中山みきの言葉に導かれ満州に渡ったが、実際は現地農民から土地建物を奪い、差別し、蔑視し、じきに部隊の要請を受け「マルタ」の焼却用の材木切り出し、墓穴掘り、遺体の投棄まで行った。「壁の向こうで何が行われているか、みんなうすうすわかっていた」という証言がある。「五族協和」は信仰の目指す理念と重なる部分もあっただろうが、実際は「せかいいちれつ」どころか差別と分断、略奪と暴力が支配する土地だった。「関東軍が悪い」という。しかし関東軍が「悪い」のは当然である。著者は「このような他者への責任転嫁があるかぎり、自分たちが侵略の担い手になっていたとの自覚を促すのは困難である」(p.204)と指摘する。

 村は1934年に起工し、順次信徒が入村した。約10年間で合計何人が入村したかは不明だが、敗戦に伴う大混乱で多くは死亡または「棄民」となり、引き揚げたのは1,018人だったという(pp.194-195.その後も帰国を果たした人は少数いるらしい)。

 興味深いのは著者が「私の国アメリカは、建国するにあたって先住民のインディアンから土地を奪った。抵抗する彼らを虐殺したあげく迫害に及び、広大な土地の略奪と征服に成功した。征服者たちはこの残虐極まりない行為を、キリスト教徒としての『神意』の実現と位置付けた。そして今日、アメリカ大統領はこの残虐行為を過ちとして先住民に謝罪している」と付記し、「我々は謝罪したが、新興宗教教団においては今日に至るまでその姿勢は希薄である」と指摘している点だ(pp.211-212)。おれたちも虐殺したけどちゃんと謝ったんだもんねというわけ。謝って済むのなら……。

 宗教団体の満州への開拓団派遣については、かなり前に堀井順次『敗戦前夜―満州キリスト教開拓団長の手記』(静山社,1990)を読みfacebookにも読後感をアップした(2014,12,19)が、堀井によれば、そもそも賀川豊彦の「満州にキリスト者の理想郷を」という要請を受けて行われた移民だったが、天理教団と同様、結局は日本の大陸進出に加担する結果に終わった。堀井氏は「行く末の困難を知った私は、賀川を訪ね、『最悪を覚悟のうえで行ってきます』と告げた。賀川は顔も上げず、一言も答えなかった」と書いた。

 一方、明治時代から弾圧を受けていた天理教団は、政府の方針に積極的に反応したとツジモトは書く。内地で困窮を極めた農民が満州移民の好機だというので便宜的に入信した事例もあったという。教団はそれを知っていただろう。そして教団側のそうした心理を関東軍は利用し、秘匿性の高い七三一部隊の周辺作業に従事させたのではないかと著者は指摘している。こうなると国策協力という側面があったことは否めない感じがする。

 信仰の成就を夢見て敗れた信徒・村民の敗走の記録はすさまじい。そして帰国後は教団本部が用意した三重県内などの「不毛の土地」に再入植し、なんとか暮らしが立つようになったのはようやく1970年代だったという。

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