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中野雅臣という"優しい"プロサッカー選手について

2024年2月1日、プロサッカー選手の中野雅臣選手が現役引退を発表しました。

東京ヴェルディのサポーターとして感情が激しく揺さぶられる別れを何度も味わってきましたが、この一報は特別にさみしいものでした。僕のサポーター人生の中で、中野選手は数少ない「推し」と言える選手だったからです。

彼の引退に寄せて、中野雅臣という人はどんなサッカー選手だったのか、なぜ僕は彼に惹かれたのかを書いてみようと思います。


誰からも期待を懸けられた大器

まずは中野選手のプロ生活を振り返っていきます。
東京ヴェルディユース出身の中野選手は、小柄な選手が多いヴェルディユースの中で際立つ長身に加え、高い技術を持つ左足と創造性のあるプレーが特徴的なテクニシャンで、ユース時代から年代別代表に選ばれるなど将来を嘱望される選手でした。

ヴェルディには中学生年代であるジュニアユースから所属していましたが、それ以前にプレーしていた埼玉県内のクラブチーム時代にはその才能が話題となり、ヴェルディ以外にも複数の首都圏Jクラブの下部組織から誘いが来るほどだったそうです。

高校生3年生となった2014年にはユースで10番とキャプテンマークを託され、4月には2種登録されます。同年のトップチームはJ2残留争いに巻き込まれていましたが、シーズン終盤の第40節V・ファーレン長崎戦でJリーグデビューすると、残留を決めた第41節ザスパ群馬戦にも出場。いずれの試合もわずかな出場時間でしたが、痺れる局面でのトップチームデビューはそれだけ首脳陣からの期待が大きかったことの証左であったのでしょう。

確かにユース時代の映像を見ると、そのテクニックや創造性あふれるプレーに期待を抱かずにはいられません。

ちなみにこの年のトップチームは、第39節終了時点で勝ち点37の20位。残留を争っていた21位のカマタマーレ讃岐は同タイミングで勝ち点32でした。残留が確定していない勝ち点5差の状況で2種登録選手をトップチームデビューさせる当時のヴェルディ、なかなかに狂気を感じさせてくれます。

跳ね返され続けたプロの壁

晴れてトップチーム所属となった2015年。飯尾一慶氏や桜井直人氏らが背負っていた16番を与えられ、開幕戦のベンチメンバーにも名を連ねます。
この年のヴェルディは前年の不振が嘘のようにシーズン序盤から順調に勝ち点を積み上げ、8月には自動昇格圏に迫る3位にまで上昇します(最終的には8位でフィニッシュ)。
快進撃の要因は若手選手たちの活躍だったことから、「ヤングガンズ」と評されることもありました。しかしその中心となったのはユースで三期上の杉本竜士選手や南秀仁選手、二期上の安在和樹選手、一期上の高木大輔選手や澤井直人選手や安西幸輝選手、そして同期の三竿健斗選手などでした。中野選手は第22節のFC岐阜戦でプロ初のアシストを決めるものの、チームを牽引するような働きを見せることはできず。シーズンを通して9試合出場にとどまります。
当時のヴェルディの活躍を扱ったサッカー雑誌をひっくり返してみても、中野選手の名前が出てくる機会はほとんどありません。永井秀樹氏が当時開催していた若手を中心とした自主トレグループ「永井塾」の塾生としてのコメントがかろうじて見られるくらいでした。

翌2016年のヴェルディは、前年途中から課題とされていた得点力不足を改善できず1年間苦しみ続けました。本来前線のポジションであった中野選手も左サイドバックで起用されるなど、「あの手」「この手」として用いられましたが、決定的な仕事をすることはできず、7試合の出場にとどまります。
とはいえ、この年の440分間という出場時間は中野選手がヴェルディ在籍中に最も長い時間試合に出場したシーズンでもありました。ただ、Football LABで2016年の彼の成績を見てみると、先発出場5試合中3試合が本職ではない左サイドバックとなっています。

その後も"便利使い"に悩まされることに

もちろん「どんなポジションであれ、チャンスは与えられていたのだからそれを活かせなかったのは実力不足」とも言えますが、それでも不振に喘ぐチームの中で半ば博打的な起用で不慣れなポジションを任されたことは、不運というか、めぐり合わせが悪かったのではないだろうか…という思いを抱いてしまいます。

初めての移籍、初めての大怪我

ロティーナ監督が就任した2017年。中野選手には三浦知良選手をはじめとした数々の名選手が背負った11番が与えられます。さしたる実績を残せていない彼には重すぎるのではないかとも思いつつ、ポテンシャルは間違いなくチーム屈指でもあっただけに、期待と不安が入り交じったものでした。
彼に期待を掛けていたのは首脳陣やサポーターだけではありません。この年ヴェルディに加入した橋本英郎氏は、以下のインタビューで有望株の一人として中野選手の名前を上げていました。

該当箇所は有料部分のため会員以外は読めませんが、"スケールがありこの先が楽しみな選手"的な発言をしています。

けれども、それでも、この年も結果で応えることはできませんでした。
開幕戦の徳島ヴォルティス戦でプロ初の開幕スタメンを勝ち取るものの、起用されたのはやはり不慣れな右ウイングバック。当時売出し中だった馬渡和彰選手を相手に、どれだけ贔屓目に見てもズタボロにされてしまいます。その後はFWとして起用されるも数字を残すことはできず、好調なチームの中で出場機会も減少していきます。

スリートップの中央で先発したジェフユナイテッド千葉戦は、成果は残せなかったものの気合いは感じられた試合だったのですが。

夏の移籍ウインドウが開くと、クラブと本人双方の意向により当時JFLのFC今治へ、自身初の移籍が決まります。

竹本一彦ゼネラルマネージャーは言う。
「来季、チームに戻すことを前提とする移籍です。少し環境を変えてやってみたほうがいいだろうという判断。同期の三竿健斗は鹿島で試合に出て、レギュラーをつかもうとしています。中野も能力は高いものを持っているんです。今回の移籍できっかけをつかみ、成長につなげてもらいたい」

https://www2.targma.jp/standbygreen/2017/07/17/post13315/

実は逆オファーというか、ぼくの方から代理人を通じて今治の状況を聞いて、コンタクトをとりました。FC今治というチームが気になってて、やってるサッカーがぼくのイメージにフィットするし、選手として大きくなれそうな気がしていました。

https://miton-imabari.jp/fcimabari-masaomi-nakano/

当時の強化責任者の言葉にあるように、この移籍はあくまでも修行の側面が強いものでした。しかしJFLの舞台でも目立った成績は残せず、期限付き移籍期間を延長して2018年も今治でプレーすることが決まります。

シーズンの始まりからプレーできればきっときっかけを掴めるはず──そう思ったサポーターは少なくなかったはずですし、本人もそう考えていたかもしれません。
しかし、ここでも試練が降りかかります。同年3月、トレーニング中に右足アキレス腱断裂の大怪我を負いシーズンを棒に振ってしまったのです。
傍から見ていた者にとってもショックが大きな怪我だっただけに、本人はいかばかりだったでしょうか。負傷から3ヶ月ほど経った後に掲載されたインタビューでは次のように振り返っています。

手術するような大怪我は始めてだったので、受け入れるのに時間がかかりました。すぐに復帰できると思ってたけど、病室から手術室に運ばれている時に、自分が本当に大怪我をしたんだなと感じました"
"ショックがかなり大きかったけど、自分が大きく成長できるいい機会だと感じています
(原文ママ)

https://miton-imabari.jp/fcimabari-masaominakano/

その後、2018年11月に練習試合で実戦に復帰すると、2019年も今治でのプレーを継続します。
2019年の今治はJFLで3位に入ってJ3昇格を果たします。11番という背番号を付けた中野選手は、開幕戦のFC大阪戦で1年以上ぶりに公式戦に復帰すると、シーズンを通じて13試合に出場。ただしフル出場はさほど多くなく、確固たるポジションを確保できていたというわけではなかったようで、チームの昇格にどこまで貢献できていたのかはよくわかりません。それでも、大怪我から復帰して年間を通してプレーでき、昇格という歓喜も経験できた2019年は、中野選手にとってプロとして初めて、一定の充足感を得られたシーズンだったかもしれません。

ヴェルディとの別れ。ようやく掴んだ輝く場所

引き続き今治でJ3の舞台を戦うのか、それともヴェルディに復帰するのか。2020年の中野選手が選んだ道は後者でした。
この年のヴェルディを指揮したのは永井秀樹監督と吉武博文ヘッドコーチ。永井監督は前述の「永井塾」で薫陶を受けた人物であり、吉武ヘッドコーチはU‐17日本代表時代に中野選手を抜擢した人物でした。特別に目をかけていた二人がチームを牽引する立場ということもあり、これまでよりもチャンスがもらえるのではないかと考えていました。

ただ、シーズン前のトレーニングマッチでは左サイドバックやセンターバックで起用されているという情報がちらほらと見られ、「マジでか」「さすが吉武&永井」「それでいいのか雅臣」という思いを抱きました。
それでもこの年のヴェルディの最後のピースは中野選手だと考え、彼のユニフォームを買いましたし、少なからず存在する「中野雅臣がゴールを決めて喜んでいる姿を見ないと死んでも死にきれないおじさん」の姿も観測してしました(僕もまたそのひとりでした)。

勝負の2020年。もちろんユニフォームは「MASAOMI 15」を選びました。

そんな何度目かの、そして恐らく最後になってしまうであろうという勝負の年となったこのシーズンですが、コロナの影響もあり2月23日の開幕戦の後にリーグ戦は中断。4ヶ月後に再開するという変則日程となります。
この中断期間が中野選手にどれだけの影響を与えたのかはわかりませんが、第4節の大宮アルディージャ戦で初めてのベンチ入りすると、第5節のヴァンフォーレ甲府戦では88分から途中出場を果たします。10分にも満たない出場でしたが、ヴェルディでの試合出場は1100日以上ぶりとあり、感涙にむせび泣いたサポーターも少なくなかったことでしょう。

個人的に2020シーズンのヴェルディのベストゲームはこの甲府戦でした。そこ中野選手がいてくれたことは、奇妙にも嬉しい出来事ではありました。

でも、「東京ヴェルディの中野雅臣」を見られたのはこれが最後でした。その後は奈良輪雄太選手や福村貴幸選手といった左サイドバックのレギュラー陣の牙城を崩すことはできず、試合出場もベンチ入りも成すことができない日々が続き、ついに8月24日、J3のいわてグルージャ盛岡への期限付き移籍が発表されます。

この度、いわてグルージャ盛岡に移籍することになりました。ヴェルディの力になるにはもっと成長が必要と感じ、移籍を決断しました。自分の力を必要としていただけるチームがあることに感謝し、覚悟を持って行ってきます

https://www.verdy.co.jp/news/9274

「再起を誓うコメントではあるものの、きっと片道切符になってしまうだろう」──悲しい確信を抱かせる移籍でした。が、これはひとりのプロサッカー選手としては大きな転機となるものでもありました。
移籍から5日後の第12節FC今治戦で早速スタメン出場を果たすと、その後もコンスタントに出場機会を獲得。しかも、ヴェルディ時代のように不慣れなサイドや守備的ポジションではなく、ツーシャドーの一角という彼にとって最適な場所でプレーできるようになったのです。

第17節ガンバ大阪U-23戦ではアシストを記録。

第21節アスルクラロ沼津戦でもアシストを決め、安在達弥選手とのヴェルディユース同期対決を制します。

そして第24節Y.S.C.C横浜戦で、ついにプロ初ゴールを決めます。

YSCCとの試合は僕も現地まで観戦しに行っていたのですが、ゴール前に走り込む嗅覚とキレのある動きを見て改めて前線で輝く選手なのだと感じられました。何より、ゴールを決めて控えめに喜ぶ姿と、仲間にもみくちゃにされながら祝福されている様子を見られたことがとてもとても嬉しかったです。

フィジカル勝負が多いJ3の中で積極的に仕掛け、戦える選手になっていた印象でした
モレラト選手からのクロスに飛び込んでプロ初ゴールをゲット。
写真を撮りながら「やったー!」と叫んでしまいました。
仲間にもみくちゃにされながらはにかんだ笑顔は忘れられません。
が、後日「周囲からは初ゴールなんだからもっと喜べよと言われました」と発言していました。

その後、軽い負傷で一時離脱はするものの復帰後はポジションを確保。勝てばJ2昇格が決まるAC長野パルセイロのホームに乗り込んだ最終節では、長野の夢を打ち砕く先制点をアシストします。

シーズン途中からの移籍だったものの、グルージャでは22試合に出場して1得点4アシスト。1250分間の出場時間も含め、キャリアハイを達成しました。
この活躍はグルージャ首脳陣からも高評価を得ます。

有料部分では、秋田豊監督、菊池利三GM(いずれも当時)がそれぞれが半年間の成長を評価するコメントをしています。

そして年が明けた2021年1月6日、ついに中野選手のグルージャへの完全移籍が発表されます。

ジュニアユースからヴェルディで育ち、選手として人として、沢山の経験をし成長させてもらいました。
トップに上がってからは、なかなか力になれず毎日がもどかしく苦しかったです。
ただ、どんな時でも期待してくれている方や応援してくれている方がいたから、やり続けることができたと思います。

https://www.verdy.co.jp/news/9541

このコメントにあるように、トップ昇格を果たしてからの7年間、「もっとできるはず」「こんなもんじゃない」という思いは、誰よりも本人が抱えていたことでしょう。だからこそ、この移籍はとても悲しく寂しいものでした。それでもプロサッカー選手として求められる場所を自力で掴み、請われてその場に移ったことは、それ以上に嬉しいことでもありました。

2021シーズンの選手紹介はちょっと泣けたけれども。

"戦力"として期待されるも…。苦しみ続けた3年間

自ら勝ち取った完全移籍であり、監督も前年と同じとあって、2021年は輝かしいものになると疑いませんでした。

グッズの広告塔にもなっていたように、クラブとしての期待も感じられました。
どうでもいいですが、このスタジャン僕も持ってます。なぜなら雅臣が広告塔を務めたので。

(これはプロサッカー選手として云々の話ではないですが)3月には著名人の昔の同級生を紹介する「あいつ今何してる?」というテレビ番組で、テレビ朝日の斎藤ちはるアナウンサーの同級生として全国ネットで紹介されるということも。

「天性のモテ男」というフレーズは一部ヴェルディファミリーにいじられまくっていて微笑ましかったことを覚えています

プレー面でも魅せます。テゲバジャーロ宮崎との開幕戦でスタメン出場すると、チームのシーズン初ゴールにして値千金の決勝点を生み出したのです。

その後も5試合連続スタメン出場を含む7試合連続で出場。これまでにない充実っぷりを見せますが、開幕戦以降はなかなか結果を出せません。するとチームの連敗に伴って徐々に序列を下げていき、6月6日第10節の藤枝MYFC戦を最後にメンバー外の日々が続きます。その後9月26日のFC今治戦で久しぶりにベンチメンバー入りを果たすも出場機会はなし。11月16日に左膝半月板損傷の怪我を負っていたことと、手術をしていたことが明かされ、チームよりも一足先にシーズンを終えることとなってしまいました。

ヴェルディ時代とは違ってロマン枠的な扱いではなく確たる戦力として期待が懸けられたシーズンでしたが、結局8試合出場1ゴールに留まります。それでも、この年のグルージャは3位と同勝ち点、得失点差2差の2位となってJ2昇格を決めていたので、開幕戦でチームを勝利に導いた中野選手も昇格に貢献したと言える側面はありました。その影響もあってか2022年も契約更新を勝ち取り、晴れてJ2への帰還を成し遂げます。

2年ぶりのJ2の舞台での戦いとなった2022年。前年に負った怪我も回復し、開幕スタメンの座を掴み取ります。その後しばらくは出場機会を失うものの、シーズン中盤から徐々にメンバー入りの機会を増やしていきます。6月12日に味の素スタジアムで行われたヴェルディとの試合では残念ながらメンバー入りを逃したものの、第24節の大宮アルディージャ戦ではついにJ2初ゴールを決め、チームの勝利に大きく貢献します。

この年のグルージャはシーズン途中からチームを幾つかのグループに分け、数試合ごとに選手を入れ替えるような形で運用をしていました。その影響もあってポジションを確固たるものにはできなかったものの、それでも一定程度の出場機会は獲得。第40節のヴェルディとの試合では念願の古巣戦出場を果たします。

この年は13試合に出場して1ゴール1アシストという成績でした。J2初ゴールやヴェルディ戦での出場など、個人的には印象深い1年ではあったものの、期待された成績には届かなかったこともまた事実です。その結果、この年限りで契約満了となりグルージャを離れることが決まります。

それにしても、別れの挨拶でもうちょいいい写真はなかったのだろうか?という疑問は芽生えましたが。

年が明けた2023年、グルージャ時代にGMを務めていた菊池利三氏がヘッドコーチに就任したJFLのレイラック滋賀FC(旧MIOびわこ滋賀)への加入が決まります。

2023年のレイラックは、前年から経営体制が大きく変わったこともあって中野選手以外にも多くの元Jリーガーを補強します。
そんな状況下でどれだけ違いを見せられるのか。これまで以上に求められる数字を打ち出していけるのか。カテゴリを落としたからこそ強まったプレッシャーに打ち勝てるのか。
本当にこれがラストチャンスになるだろう。
どうにかもう一度復活を果たして欲しい。
そんな願いを持ちながらのシーズンでしたが、この年の出場機会はわずか2試合に終わります。出場した試合ではウイングバックのような位置での起用となっており、不得手なポジションでもあったためか窮屈そうにプレーしている印象でした。出場した試合以外はベンチ入りもなかったため、もしかするとコンディションを崩していたのかもしれません。
いずれにせよ、期待に応えることはできず。12月30日にこの年限りでの退団が決定します。

レイラック滋賀のクラブ関係者の皆様、スポンサー様、監督スタッフ、トレーナー、選手、サポーターの皆様、1年間ありがとうございました。
何も残すことができず、自分の実力不足を痛感した1年でした。

https://reilac-shiga.co.jp/news/detail/clqlrugzy000el41wxu1j75v9

そしてそれから2ヶ月後の2月1日。
大宮アルディージャのアカデミースタッフの中に中野選手の名前が掲載されていたことにより、現役から離れたことが判明。その数時間後、本人のSNSでも現役引退が発表されました。

今治時代に怪我をしていなければ。
もっと適正ポジションで使われていれば。
ユースから直接トップ昇格ではなく大学を挟んでいれば。
中学生年代でヴェルディ以外のチームを選んでいれば。
もう少しだけ"優しく"なければ。

たくさんのifを感じてしまう中野選手のプロとしての歩みは、ここで終わりを迎えました。

なぜ僕は中野雅臣に惹かれたのか

J2 :38試合1得点2アシスト
J3 :29試合2得点4アシスト
JFL:20試合0得点
合計:87試合3得点6アシスト

9年間のプロ生活で残した数字だけを見ると、悔しいけれど凡庸な選手であったと言わざるを得ません。
そのような中で僕は中野選手の何に惹かれたのだろうかと、彼が引退を発表してから考えました。
彼のユース時代のプレーを見ていたら答えは簡単だったのでしょうが、僕はその頃を知りません。正直なところ、ヴェルディのトップチームで覚えているシーンも数えるほど。この文章を書くために昔のマッチレポートやハイライト映像を見返す中で、「そういえばこんなシーンあったな」と思えたものが1つ2つあったくらいで、むしろ、彼の才能を断片的に答え合わせできたグルージャ時代の印象の方が強いとさえ言えます。

それではなぜか。
やはり彼が持つポテンシャルとストーリーが大きかったのだろうと思います。
歴史を持ちながらも低迷するヴェルディというクラブの中で、高い技術と恵まれたフィジカルを持つ育成出身の10番レフティ。
少しサッカーを知っている人ならば、この情報だけで応援したくなってもおかしくないことがわかるはずです(はずです)。
また、ヴェルディの情報を発信するWebマガジン「スタンド・バイ・グリーン」の以下の一文は、ヴェルディサポーターの総意でもあったと思っています。

こないだのアウェー愛媛FC戦、応援に駆けつけた中野雅臣(FC今治に期限付き移籍中)とスタジアムでばったり会いました。今年3月に右足アキレス腱断裂の重傷を負い、リハビリに努め、ようやく練習に部分合流できたそうです。表情も明るく、元気そうでした。
トップに昇格してから4シーズン、まるで結果を出せていませんが、誰が何と言おうと中野はいい選手です。同期の三竿健斗(鹿島アントラーズ)にも引けを取らない、非凡な能力の持ち主です。世界中からそっぽを向かれても、ランドで彼のプレーを間近で見てきた人たちは信じてやらないかんと僕は思います。

https://www2.targma.jp/standbygreen/2018/11/02/post23602/

中野選手を語る上でもうひとつのキーワードとなるのが「優しさ」です。
僕はファンサービスなどは受けたことはありませんが、中野選手のことを「優しい」と評する人は多くいました。確かにそれは彼のインタビューやSNSなどでの発信からだけでも伝わってくるものでした。ただ同時に、その優しさこそが彼の成長の大きな壁であったと指摘する人も少なくなかったこともまた事実です。

岸上「中野はやさしすぎるんですよ。後ろからガツンとこられても、文句ひとつ言わない。それでひたすら消耗していく」
海江田「ああ」
岸上「16号が死ななきゃダメなんです。それで孫悟飯が覚醒したように」
芥川「ん、なんの話?」
岸上「ドラゴンボール」
海江田「心やさしきアンドロイド、人造人間16号。飲みすぎだぞ、岸上」
芥川「ゴメン、全然わからない」
岸上「読んでないんスか」
海江田「もう帰れよ、岸上」
岸上「16号が死ぬようなことが起これば、中野も一気に」
海江田「誰を殺す気だ」
岸上「いや、それはわかんないですが」
海江田「いいか、誰も死なしてはならぬ!」

https://www2.targma.jp/standbygreen/2019/12/12/post32443/5/

彼の優しさがプロサッカー選手としての成長にどれだけ影響を及ぼしたのか、実際のところはわかりません。しかし、同僚との競争に勝ち抜き、対戦相手との駆け引きを制し、出し抜かなくてはならないという生き馬の目を抜くプロアスリートの世界では、「優しさ」は必ずしも美点にはならず、足枷にもなりうることは理解できます。でも、それこそが中野選手の人間的な魅力であり、だからこそ僕は彼に惹かれたのだろうな、とも思っています。

中野選手はこれからはサッカー指導者の道を歩んでいくようです。その途上で彼の優しさが再び重荷になってしまうこともあるかもしれません。
でも、幾つもの挫折と苦しみを知った優しい中野雅臣だからこそ描ける指導者の道というものもあるのではないだろうかと期待してもいます。

終わりに

ヴェルディというクラブ全体を応援するスタイルが中心だった僕にとって、ひとりの選手を追い、応援することは、それまでにない楽しみでもありました。
いわゆる"個サポ"の人たちのように熱心に試合に足を運べたわけではなかったですが、2020年に三ツ沢でプロ初ゴールを決めた試合を見られたことは一生の喜びでもあります。
思い描いたような活躍はできなかったかもしれませんが、少しでも魂を打ち震わせてくれたことは得難い経験でありましたし、一生忘れないでおきたいものでもあります。
中野雅臣選手、お疲れ様でした。ありがとうございました。これからも応援しています。

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