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苛々の発散とそれに要するエネルギーを天秤に掛ける

鍋に湯を沸かしていると、背後に人の立つ気配がした。振り向くと夫が立っていて、ぼさぼさの髪を更に掻き乱しながら、おはようも言わずに私に問うた。
「なあ、最近夜中に俺のこと起こしたりしないよな?」
油に塗れた換気扇の立てるゴウゴウと喧しい音で聞こえないフリをしようかとも思ったが、ずっと後ろに立たれているのも面倒臭い。
「起こさないけど、何で?」
「いや、何か夜中に体揺すられたりしてる気がして、お前かな、と思って」
「…違うよ、トイレに立つ時はあるけど、別に貴方を起こす必要無いでしょう」
子供じゃあるまいし、と続けようとした言葉を、私は飲み込んだ。そういう何の気無しにこちらが付け足した一言で、臍を曲げるような人なのだ。

籠もったような部屋の空気と湿気を逃す為に開けた窓から、雨の音がする。
ザアザア、ゴウゴウ。
雨と換気扇の音が混じり合うのを聞きながら、私は笑いそうになるのを堪えた。

自分から私に触れても来ない癖に、何で私が触れると思っているのだろう、この人は。

「まあ、そうだよな」
「悪い夢でも見てるんじゃない?…ね、お昼、素麺にしようかと思うんだけど」
「ああ、いいよ素麺で」
出来たら呼んで、と欠伸をしながら、夫は再び寝室に引っ込んだ。その脂肪の付いた姿勢の悪い背中を見送ってから、私はぼそっと問い掛けてみた。

「ねえ、あんなののどこがいいの?」

冷蔵庫の前にぼんやりと立っている茶髪のショートボブの女は、私の言葉に答えるでもなく、ただ夫の立ち去った方を見ている。

―――何が、夜中に起こしたりしないよな?だか。
全部、自分が連れて来ているのに。

黒髪ロングの女は、同窓会の写真に写っていた人に似ている。
巻髪の派手な女は何かしらの店の女だろう。
そして茶髪ショートボブの女は、いつか持ち帰って来た社報に写真が載っていた。
あと何人か居る気がするけど、よく分からない。

私の言葉には殆ど反応せず漂うように居る彼女達に、私はいつしか慣れてしまった。
彼女達の存在よりも、夫の存在や言動ひとつひとつの方に、苛々する。けれどその苛立ちを夫に直接ぶつけるのも、夫の見ていない所で物に当たるのも、疲れてしまった。

気付けば鍋の湯はぐらぐらと煮立っていた。
私は火を少し弱めると、素麺の仕舞ってある戸棚へ向かう。
「どいて、じゃま」
冷蔵庫の前を通る時小声で突っかかってみたけれど、ショートボブは私を睨んでも来ない。

居座るならせめて、家賃折半してくれないかしら。
そう思いながら鍋に放った素麺は、バッと美しく均等に広がった後ゆっくりと熱湯に飲み込まれていった。

End.

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