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信長、松永弾正を辱める。

 家康と信長が会見した時、そばに松永弾正久秀がいた。信長は、
「この老翁は世の人の為し難き事を三つ為した者である。将軍を弑し奉り、また己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焼いた松永と申すものである」
 と言い放はなったが、松永は汗を流して赤面したという。
 後に家康は重臣らを召して物語している時、この事を思い出した。そして、
「先年、信長殿が金ケ崎を引き退かれた時、所々に一揆が起こり危うかった。朽木と浅井との一味を疑い、進退が窮まったところ、彼の松永は信長殿にこう告げた。『朽木が方へ参り、味方に引き付け申しましょう。もし朽木が同心すれば人質を取り、連れて御迎えに参りまする。もしまた帰り参らずば、事成らずして朽木と刺し違え、死に申したと知られませ』と言って、朽木の館へ赴き、事無く人質を出させ、それより信長殿は朽木谷に掛かって引き返されたのだ」
 と語ったという。
『常山紀談』より

『太平記英勇伝:松永弾正久秀』 (落合芳幾筆)

松永久秀について
 松永久秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、三好長慶の家臣として出世し、大和国を支配しました。彼の生涯を簡単にまとめると以下のようになります。
永正7年(1510年)、山城国西岡(現在の京都府西京区)に生まれる。出自は不明で、阿波国や摂津国の出身説もある。
天文10年(1541年)頃、三好長慶に仕える。当初は書記や代官として活動するが、やがて武将としても頭角を現す。
天文20年(1551年)、摂津滝山城主となり、三好氏の重臣として畿内の政治や外交に関わる。
永禄2年(1559年)、大和信貴山城主となり、大和国の領国経営に着手する。多聞山城を築き、大和をほぼ制圧する。
永禄6年(1563年)、三好長慶が死去すると、その養子・義継を補佐し、将軍・足利義輝を暗殺する。
永禄10年(1567年)、三好三人衆と対立し、東大寺を焼くなど内訌で消耗する。
永禄11年(1568年)、織田信長が上洛してくると、一度は降伏して大和一国を安堵される。
元亀2年(1571年)、武田信玄に通じて信長に反逆するが、翌年末に再び降伏して大和支配を安堵される。
天正3年(1575年)、多聞山城と大和守護を失い、北陸の上杉謙信を頼んで再び信長に反逆する。
天正5年(1577年)、信長の攻撃に抗しきれず、信貴山城で自害する。名器・平蜘蛛の茶釜を抱いて火中に投身したという伝説がある。

 以上が松永久秀の略伝です。久秀は狡猾で野心的な梟雄として描かれることが多いですが、その一方で茶人としても高名であり、茶道具や連歌などにも造詣が深かったことが知られています。

『芳年武者牙類:弾正忠松永久秀』(月岡芳年筆、明治16年(1883年))、平蜘蛛を割る場面


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