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THIN LIZZY関係者インタビュー特集

2005年、プレイヤー誌が初出。ダブリンでフィル・ライノット銅像が建てられて、記念ライヴが行われたときのTHIN LIZZY特集です。
フィロミナ・ライノット、ゲイリー・ムーア、エリック・ベル、ブライアン・ロバートソン、ミッジ・ユーア、スノーウィ・ホワイトとのインタビューと、当日のライヴ・レポートが掲載されました。
THIN LIZZY研究において貴重な証言の数々であり、自分にとってもとても思い出深い集大成的な記事です。
なおこの後、ブライアン・ダウニーとスコット・ゴーハムにもインタビューしており、ウェブ記事で読むことが出来ますのでぜひ。
 
 
●ブライアン・ダウニー
(2019年)
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20190105-00110158
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20190111-00110865
(2020年)
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20200325-00169708
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20200328-00170098
 
●スコット・ゴーハム(2014年)
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20140515-00035336
 
 
>>>フィロミナ・ライノット
 
1930年生まれだから今年75歳になるフィロミナさんだが、まったく年齢を感じさせない。まだ19歳にもならないうちにフィルを出産、女手ひとつで育てあげ、さらにホテルのオーナーとして切り盛りしていたというから、そのバイタリティは筋金入りだ。除幕式やトリビュート・コンサートで挨拶するのに加え、ライヴ後にはホテルでファン達と午前3時過ぎまで語り明かす活躍ぶり!そんなフィロミナさんに、日本のリジィ・ファンへのメッセージをいただいた。
 
●フィルの銅像建立、おめでとうございます!
 
ありがとう。世界中のファンのおかげで、とうとうフィルの銅像が建つことになって、本当に喜んでいるわ。アイルランド、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ...日本のファンからもたくさんの励ましの手紙をもらったし、本当に感謝しています。日本のバンドTHE LIZZY BOYSはフィルの書いた曲をプレイして、私の息子の魂を生かし続けてくれているし、自分の娘にサラと名付けたファンからもお手紙をもらったわ。日本のみなさん、シン・リジィを応援してくれて、本当にありがとう。ダブリンを訪れたときには、ぜひフィルの銅像を見にきて下さいね。
 
>>>ゲイリー・ムーア
 
フィルとゲイリー・ムーアは、最高のスパーリング・パートナーだった。フィルが19歳、ゲイリーが16歳のときに二人は出会っているが、1974・77・78年と三度にわたってリジィで合体。両者のアイリッシュの血が呼応した名盤『ブラック・ローズ』(79)を生むが、そのアイリッシュの血ゆえに壮絶な喧嘩別れを演じ、同年夏のアメリカ・ツアー最中にゲイリーが離脱。一度は犬猿の仲となるも、フィル晩年の85年に再合体を果たし、デュエット曲「アウト・イン・ザ・フィールズ」をヒットさせた。フィル亡きあと『ワイルド・フロンティア』(87)を彼に捧げたゲイリーだが、親友の銅像除幕式を記念するセレブレーション・コンサートに真っ先に名乗りを上げたのもゲイリーだった。
 
●初めてフィルと会ったときのことを教えて下さい。
 
僕はベルファストでザ・メソッドというバンドでギターを弾いていたんだ。ギタリストが自動車事故に遭ったんで、当時16歳の僕が代わりに呼ばれたんだよ。それで毎週水曜日の夜、ダブリンに遠征して演奏していたとき、僕のプレイを聴いたスキッド・ロウのベーシスト、ブラッシュ・シールズが「道路を隔てたクラブでライヴをやってるから、見においでよ」って誘ってきた。それで休憩時間に見に行ったんだけど、その時のシンガーがフィルだったんだ。エコー・ユニットを使って、爆撃の音をマイクで出したりして、すごく変わった奴だと思ったよ!僕はブルースが大好きだったから、スキッド・ロウのワイルドでサイケなサウンドには最初ピンと来なかったけど、とにかく家を出る口実を探していたからね。ブラッシュにバンドに加入してくれと言われて、すぐに了承したんだ。
 
●若い頃のフィルはどんな人でしたか?
 
最高にズルい奴だったよ(笑)!よく覚えているのは、スキッド・ロウに入ることになった日のことだ。フィルが「ダブリンを案内してやる」って言って、最後に中華料理のレストランに入ったんだ。それで僕が気に入らないことを判った上でわざと酢豚を注文して、「食べないの?おいしいよ」と言って全部食べてしまった!フィルとの付き合いは長かったけど、その事件がすべてを集約していた気がするなあ(苦笑)。でも彼とは親友になって、彼がスキッド・ロウをクビになってから同居していたこともあったんだ。僕とフィル、それからグラニーズ・インテンションズってバンドのジョニー・デュハンの三人でね。フィルはブライアン・ダウニー一緒にオーファニッジってバンドを組んでいた。当時は僕が17歳、フィルが19歳で年上だったから、おふくろみたいな役割だった。毎朝俺たちを起こして、朝ご飯を作ってもらったんだよ。でも毎朝毎朝目玉焼きと豆の煮込みで、もう見るのも嫌だった(笑)。あまりに貧乏だったんで、一人がバスに乗って『ベイリー』ってパブに行って、バンドのファンからビール三杯をおごってもらってたんだ。で、他の二人が徒歩でパブまでたどり着いた頃にはビールが待ってるって寸法さ!あとはガールフレンドの家に行って、お母さんに何か食べさせてもらったり、本当に金がなかったんだ。でも今思い出すと、すごく楽しかったよ。それからスキッド・ロウはロンドンに進出して、半年後ぐらいにシン・リジィもやってきたんだ。だからそれからも親しい間柄だった。
 
●1974年に初めてシン・リジィに加入したときは、短期間の在籍に終わりましたが...。
 
あのときは、あくまで代役だったんだ。リジィのギタリストだったエリック・ベルがベルファストでのライヴの最中にステージを放棄して、そのまま脱退してしまったんで、僕に「助けてくれ」って電話がかかってきたんだよ。それからすぐにアイルランドに飛んで、4ヶ月ぐらい一緒にやったけど、その頃、僕はジョン・ハイズマンと新しいバンド(コロシアムII)をやることが決まってたし、すぐに抜けることにしたんだ。
 
●1978年に加入したときは、正式メンバーとしてですよね?
 
うん、『ブラック・ローズ』は良いアルバムだと今でも思うよ。僕のソロ・アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』に入っている「パリの散歩道」もフィルとの共作なんだ。ギターのメロディはコロシアムII時代、ベルギーのツアー中に書いたんだけど、それをフィルに聴かせたら「フランスっぽい曲だよね」って言って、その場で歌詞を書いてくれた。「I remember Paris in '49」という歌詞はパリの思い出を歌っただけでなく、彼の人生についてだったんだよ。フィルが生まれたのが1949年で、父親の名前がパリスだったからね。それまでリジィとは何度もやっていたけど、助っ人ばかりだったから、ようやくフィルと一緒にやれて嬉しかった。ただ、その頃からドラッグ問題が深刻になっていって、ステージでの演奏に悪影響が生じるようになってしまったんだ。僕はどうしても耐えられなくて、アメリカ・ツアーの途中でバンドを抜けることにしたんだよ。それでフィルとの仲はこじれてしまったんだ。
 
●1985年にはデュエット「アウト・イン・ザ・フィールズ」が大ヒットしましたが、その時のことを教えて下さい。
 
あの曲を書いたとき、低音ヴォーカルのシンガーと僕がデュエットしたら最高の効果が出るってパッとひらめいたんだ。そうなると当然思いつくのはフィルのことだった。彼とはもう4年ぐらい話してなかったけど、あるとき空港でばったり出会ったんだ。周囲のみんなは僕たちが決闘でもおっ始めるんじゃないかと思って、西部劇みたいに一歩下がっていた(笑)。でも僕たちは抱き合って、それからまた友達になったんだ。フィルが亡くなる前にもう一度一緒にやることが出来て、本当に良かったと思う。「アウト・イン・ザ・フィールズ」は僕が書いた曲だけど、ミリタリー・コスチュームでビデオを撮るというのはフィルのアイディアだったんだ。彼は音楽だけでなく、常にプラスアルファを加える才能を持っていた。
 
●フィルとのコラボレーションは続く予定だったのですか?
 
彼は『ラン・フォー・カヴァー』(85)で何曲か歌ってくれたし、ライヴのアンコールでも何回か参加してもらった。実際には僕のバンドのベーシストになりたいとも言っていたけど、彼の体調が良くないことは明らかだったし、ワールド・ツアーなんて無理だと判っていたんだ。「アウト・イン・ザ・フィールズ」がヒットしたことで、デュエット第二弾も企画していた。それが「ワイルド・フロンティア」だったんだ。でも残念ながらレコーディングする前に、彼は亡くなってしまったけどね...。
 
●フィルが亡くなったとき、ソロ・アルバムを制作中だったと言われていますが、どの程度完成していたのでしょうか?
 
フィルはしょっちゅうアルバムの話をしていて、誰と共作するとか、誰をプロデューサーに迎えるというようなことを言っていた。でも実際には、何も進んでいなかったんだ。当時の彼はドラッグのせいで体調が良くなかったし、音楽のインスピレーションにも見放されていた。シン・リジィは彼の家族、彼の人生そのものだった。リジィを失って孤独だった彼は、新しいバンド(グランド・スラム)を結成して穴を埋めようとしたけど、代わりにはならなかった。その頃彼は離婚して、大きな家にたった一人で住んでいたし、寂しさをまぎらわすために、ドラッグに走らねばならなかったんだ。僕は何度も「しっかりしろよ」って説教したけど、どうしようもなかった。彼と一緒にいるのは最後、本当に辛くて悲しかったよ。...たまにふと思うことがあるんだ。フィルともう1枚アルバムを作って、一緒にツアーしたかったってね。でも、もし実現していたら、途中で殴りあいの喧嘩になっていたかも知れないけどね(笑)!
 
>>>エリック・ベル
 
シン・リジィの初代ギタリスト、エリック・ベルは、バンドの歴史において過小評価されているメンバーだ。"シン・リジィ"というバンド名を提案し、突破口となった「ウイスキー・イン・ザ・ジャー」のアレンジを手がけたのが彼なのだから、その貢献度は計り知れない。初期リジィにおいては、エリックこそが牽引車だったのである。
 
●シン・リジィというバンド名は、あなたが考えたそうですが?

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14,860字
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