猛烈台風 in 宮古島 番外編
前回まで書いてきた、台風体験は番外編で終了です。
結局、あの時の教訓は
① 防災知識はあっても役立てなければ意味が無い
② 良く言われる被災後3日、出来れば1週間の目安は正しい
③ ご近所とのお付き合いを大事に
この3つになる様な気がしています。
少し、話しの中でも書きましたが。
当時、私の住んで居た家は某社宅でした。
(多分、宮古島を良く知る方には身元バレバレかと)
ご夫婦どちらかが、沖縄出身というご家庭が多く。
台風慣れしていたのも災いしたのか、非常に皆さん困っていました。
”甘く見ていた”という一言に尽きます。
沖縄出身のお宅は、台風準備に色々と備えていたものの。
沖縄特有の「台風はある意味お祭り」的な要素があり。
台風が来たら、家に閉じこもりビデオを見ながらスナックを食べ。
行きすぎるのを待つ。こんな感覚だったようで、用意していたのは
お家で楽しむ為のお菓子や、軽食一式だったそうです。
実際に、台風前にスーパーのある複合施設のレンタルビデオ店には多くの人が押しかけビデオを山と借りていました。ここの客層はほぼ20代~30代半ばの子連れ夫婦でした。
逆にスーパーで大きなカートを引いて、水や缶詰、そうめんなどを箱買いしていたのは中年以降、高齢者がメインでした。要するに、若い層は台風で家が飛ばされたという経験が無く。危機感が薄かったようです。
台風って怖い、台風の時はこうなる。という防災意識は持っていても、実際に壊滅的な台風を喰らったことが無い年代です。
同時に高齢者から、過去の猛烈台風の話は耳にたこができるほど聞かされていた筈。でも、心のどこかでは「現代では起こりえない」「昔だから、ライフラインや建物も脆弱で起こった悲劇」くらいに感じていた様です。
夫の知人、某経営者さんが家に帰れなくなり。奥様とお子さんが困ったというのも、上記の様な理由に依るものです。彼も生粋の地元民です。
幸い?というべきか、地元民でも無く。オバアに可愛がられていた私は、高齢者の知識と指示を守ったおかげで普段と変わらない食事をして。
エアコンを使えないとか、生活用水が豊富に無く不便だった等。
挙げたら切りがないですが、正直普段と同じ生活レベルは保て、ライフラインが戻るまでの1週間問、題無く暮らせました。
そうなのです、ライフラインが戻るまでに1週間の時間を要しました。
ただ、我が家は市役所が近い宮古島の中心部に住んでおり。
町村部の様に、完全復旧まで2~3ヶ月という事は有りませんでした。
実際に、台風後すぐ。
オバアを被災お見舞に行こうと思いましたら・・・。
サトウキビ畑の中の一本道、延々と続く一方向に倒れた電信柱の列。
地平線まで等間隔に、電信柱が倒れ。
例えるならば、障害走のハードルのようでした。
私の記憶が正しければ、オバアと連絡が付いたのは2ヶ月くらい経ってからだった気がします。電柱が倒れて、電気も、電話もNGで。中心部から復旧が進んだので気の毒な状態でした。
どうして、そうなったのか分かりませんが。
埋没した水道管が破損して、家の前を掘り返して修善したとのことでした。
泣きそうになる私に「昔は水道も電気も無かったから何も不自由無かったよ」と笑ってくれたのはある意味救いでした。私は知り得る限りの言葉を使い、オバアにお礼を伝えたのは言うまでも有りませんでした。
普及が進んで、落ちついてくると色々な話しを聞きました。
宮古島の役所は、被災後から団地などで水が出ないことを知り。給水車を毎日派遣したそうです。当然、自衛隊も災害派遣で入って来ていました。
我々の住む社宅には、給水車の存在すら無かったです。
それは、よそ者で地元と交流が無かったから「ここに被災者がいる」という認知が一切されていなかったからだと思います。
同時に、生協の宅配の利用者もいましたが。
生協という組織は、被災すると利用者で困っているお宅に食品や飲料を配って回る組織です。この時も、生協は「当生協利用者様で、被災されたお宅にはもれなく支援物資をお配りいたしました」と事後報告的なチラシを配っていました。
しかしながら、我々の所には何一つ物資は届かず。
私は別に届かなくても大丈夫でしたが、社宅内では恐ろしく不満が噴き出していました。皆さん、スナックと、炭酸飲料で過ごしてましたので(笑)
では、いつ頃から食材を購入できる様になったかと言えば。
停電が解消した1週間程度経過した頃からでしょうか。
スーパーも軒並み、窓ガラスが割れたり。
コンビニもレジが使えず、電卓で計算して営業したりしていましたが。
正直、ほとんど物が無いので(停電しても大丈夫な残り物がメイン)物資が何でも良いので欲しい人々の長蛇の列で大変な状態でした。
ですから、食材は落ちつくまで入手出来なかったと言えます。
一般的には、被災したら陸続きでしたら食料が運び込まれますが。
島は違います。海が荒れれば、船が出ない。
船が出なければ、何も入ってこない。これが通例です。
海は皆さんご存じ無いかも知れませんが、台風が過ぎ去っても洋上に台風があれば荒れ続けます。船が出せる様になるには、台風が過ぎ去ってから数日の日数が必要だったりします。これが島の怖い所です。
宮古島ではなく、長崎の五島列島の地元バンドですが。
こんな歌があるくらいです、非常に島の実情をよく現しているので良かったら聞いて見てください。
以上の事を考えると、近所付き合いをしておいた方が得と言う事です。
何かあった時に、取り残されがちな転勤族。
ご近所に「ここに〇〇さんが住んでいる」という認識を持っていて貰えれば、何かあった時に「〇〇さんが見えない」と心配して貰えるのです。
現在は、都会のマンションでは隣りの部屋にどんな人が住んで居るのかすら分からない。そんな所も多くなっています。人付き合いが無いから楽、確かにその通りですが。非常時に助けてくれる人がいない、助けて貰える確率が限りなく下がるという事だけは頭に入れて生活していきたい物です。
ちなみに、この時。
テレビは何か宮古島の事を放映していたか。
といえば、今と違い情報網が発達しておらず。
宮古島空港の管制塔も被害を受け、業務をまともに出来ていなかったこともあり。某N〇Kは、マエミーがその後進んで行き上陸した韓国の被害状況をバカみたいに時間を割いて放送していたそうです。
なぜ、国内の状況を伝えず。
海外の台風被害を伝えるのか、情報が一切入らない状況で実家の両親が激怒していたようです。まあ、テレビなんてそんなもんです。
台風被災以来、テレビもまともに見なくなりました。
では最後に、停電が解消されたときのお話を書いて終わりにしたいと思います。被災から1週間目の昼過ぎ。
既に体感では、10日くらい過ぎていた感がありました。
人づてで「2~3日中に、中心部だけはライフラインは戻せる」という根拠の無い情報もはいっていました。スーパーも停電が戻れば、数日で生鮮食品を入れられると言う話しも有りました。
昨日夜から、遠くで電気が付いているお宅が見え始めて
「そろそろ、家も戻るのでは無いか」と夫が話していた所でもありました。
私はといえば・・・。
毎日生活用の水を運んでいて、腰は痛い腕は筋肉痛。
正直、体じゅうが痛くて横になっていました。
すると、シーンとしていた室内に。
聞こえるか、聞こえないかのレベルで
”カチカチ”
”ブーン”
という音がザワザワザワという感じで、湧き上がりました。
1分としない内に、チョロチョロとトイレのタンクに水が落ちていく音も聞こえ始めました。
追いかける様に、チカチカチカっと天井の電気が点滅し
「キュゥウウウウン!!」という良く分からない何かが動く音がして。
あの夜、消えた全ての電化製品が動き出しました。
「つ、ついた!!やったぁあああ!!」
起き上がって、飛び跳ねて叫ぶと、驚く事に近所からも同様の歓声が沸き上がった声が空気を揺らす程になっていました。
あの不思議な高揚感と、地域全体が一斉に叫んだ不思議な経験は後にも先にもこの時だけです。
今思えば、被災したらブレーカーは落としておきましょう。なのですが。
当時は、そこまでの防災意識はありませんでした。
台風被災ですから、突然電気が戻ったことで火災は起こらなかったようですが。地震などで被災し、倒れた電化製品(電気ストーブ等)で阪神大震災で火災が発生したのは誰もが知ることでした。
この時の被災経験は、一生私の心の中心部に残るでしょう。
この経験を生かして、皆さんに防災の大事さと伝えて行きたい。
そう感じている、今日この頃です。
長々とお付き合い戴きまして、ありがとうございました。
大変光栄です!ありがとうございます❤️