カタカナ語の氾濫問題

日本語のWebページを見ていて、カタカナ語が氾濫していることを問題に感じる。個人の書いた文章だけでなく、メディアや企業の文章でもこれは頻繁にみられ危機感を覚える。
英語が多少なりともできる人間として、また日本人が日本語で話す意義を理解するものとして、なぜカタカナ語の氾濫が問題か書いていきたい。

未だ存在する欧米への劣等感

そもそもなぜカタカナ語を使いたい人が多いのか。考えるられるのは以下だろう。

  • カタカナ語を使っているとかっこいい(と周りが思うと考えている)

  • 周りが言っているから、なんとなく

西洋のものを使っているとかっこいいという発想がそもそも劣等感満載でダサい。私のこの問題提起の背景は、ものすごく雑で簡単に言うとここに終始する。

定義

まずはじめに、カタカナ語といっても種類があるので、以下のように分類定義する。

  1. カタカナ語(英語の発音をそのままカタカナで置き換え、元の英語と同じ意味を持つ表記)

  2. 日本語英語(英語に存在しない表現、または存在するが日本独自の意味を持つ表記カタカナ表記)

  3. 上記2つを含む、カタカナによる表記

カタカナ語の種類

上記3種類でも、漏れや重複もあるもののさらに以下のように分類できる。

  1. 日本で現在慣用的に使用されている、日本語英語を含むカタカナ表記 例) イベント、コミュニケーション、ヘルスケア、リサイクル

  2. 日本語訳が未定着または存在しない英語のカタカナ語(特に主にIT系)例)スマートシティ、クラウド、インターネット

  3. 一言で日本語に訳すことが難しい英語のカタカナ語 例)ジェンダー

  4. 日本語に問題なく置き換えられるカタカナ語 例) インクルーシブ(包摂的)、ダイバーシティ(多様性)、サステイナビリティ(持続可能性)

  5. カタカナで表記することが一般的でない上に、カタカナ表記する特別な意味がない 例)ゼロ・ウェイスト、プラスチックフリー、プラントベース、エシカル

特に私が問題だと思うのは、4番目と特に5番目のカタカナ語の濫用だ。

問題である理由には大きく分けて2つ、誤解などの実用上の問題、そして、文化や知識生産の衰退につながるという社会的問題がある。

実用面での問題

ここでは、上記の4番目と5番目のカタカナ語濫用に関する、実用面での問題を挙げる。

誤解・混乱を生む可能性

日本語英語としてよく知られているように、日本で使用されている「英語」には、元の意味と乖離したものがある。発信者は英語の意味でカタカナ表記をしていても、受け手がその意味を日本語的なイメージで捉えた場合、意味や認識における誤解が生じる可能性がある。またその逆、すなわち発信者が正確に理解していない英単語をカタカナで使用した場合、その英単語の正確な理解を持つ日本人が非常に混乱することになる。受け取り手がその言葉を知らない場合、さらに意味がわからなくなる。
例えば、英語でNaiveは「世間知らず」という意味だが、日本語で用いられると意味が異なる。

そもそも何のことかわかりづらい

カタカナで表記された英語は非常に読みづらく、意味も分かりづらいことが少なくない。カタカナは正確に異なる言語を表記することができないため、それが何を示しているのか、文脈を見ないとわからないことがかなり多い。
例えば、コードと表記した時、可能性としてCord, Chord, Codeが存在する。

もう一つ、Sustainableは sus(sub)-tain-ableと分解し、それぞれの語源から「ひっぱり保ち続けることができる」という意味合いが見るだけでわかる単語だ。これを環境問題の文脈などに当てはめると「持続可能」ということになる。英語ができる人はこのような抽象的レベルでの理解があるはずだ。しかし、「サステイナビリティ」という、語源が見えないカタカナ単語にこのような情報量は当然ない。他にも、InclusiveはIncludeの形容詞ということは英語表記を見ればわかるが、「インクルージョン」では元が何か分からず、イメージが掴めない。持続可能性、包摂的という訳が存在するこれら単語は、日本語で表記した方がいい。

日本語英語でも問題ない、という意見もあるかもしれない。しかし、人によって、特に英語話者と非英語話者の間で解釈が大きくずれ、語源もわからない単語の氾濫は言語の衰退と言える。

例えば、「持続可能性」ではなく「サステイナビリティ」がメディアなどで多用された場合、多くの人々はわざわざsustainabilityという言葉の訳や語源を調べたりはせず、その文脈から意味を読み取る。そうすると、この言葉が環境的な意味合いで使われることが多いことから、「サステイナビリティ」とは「環境にやさしいこと」という非常に限定的な理解(誤解)が生まれる可能性がある。こうして日本で独自の使用法や意味で定義されるいわゆる「カタカナ英語」が創られていく。ものすごくダサいし残念なことだと思う。

発信側にとっては明確であっても、補足がない未知の単語は受けてからすると解釈の余地が非常に広くなる。この点日本語表現で発信をすれば、それが未知の単語であっても、ある程度のイメージがつく。

知識生産の問題

ここではもう一つの視点、すなわち日本人が日本語で話す重要さからカタカナ英語問題を考察したい。

自然科学分野ではまた事情が違うので、以下は主に人文社会学分野の話だ。

普遍的な知識を追求する自然科学は、一面的な解釈の域を出ず完全な普遍性に辿り着くことが極めて困難な人文社会学とは本質的に大きくことなる。

日本語で学べるということの意味

私たちの多くは日本語で大学院まで教育を受けることができる。

自国で、しかも母国語で学問などの知識生産に参加できるということは、特に人文社会科学分野では素晴らしいことだ。

私が南アフリカで会ったガーナ出身の助教授はこう言っていた。

「ガーナでは植民地の歴史もあり、大学教育はすべて英語で行われるため、ガーナの複数ある言語は進化をやめ、高度で学術的な議論に耐えられなくなってしまった。そうすると当然、多くの人にとって最もその知的活動が最も活発に行える母国語でもの考えることができない」

言語は新たな概念を追加しながら常に進化するものだ。逆に人々がこれを使わず進化させなければ衰退する。母国語で高度な思考ができないということは、頭脳を最大限に活かせないだけでなく、英語ができない日本人を議論や知識生産から排除することになる。日本で、日本語だけでは思考することすらできない、そんな社会をつくるべきではないはずだ。

英語化するとは、どういうことか

さて、では仮に母国語の衰退又は喪失と引き換えに、英語が流暢またはネイティブになればそれでいいのだろうか?

これには、英語で行われる知識生産が社会科学において特に欧米中心的であり、非欧米的な価値観を排除している可能性があるという点で非常に大きな問題がある。学術的な「正しさ」は欧米圏の機関がその価値観や世界観に基づいて決定することが多いが、これは欧米的価値観を基調とするもので、決して平等で客観的なものではない。一面的ではあるが、歴史的にはこれが行き過ぎた結果が、非欧米圏の蔑視、そして植民地支配、奴隷制に繋がったと言えると思う。
話は少し飛躍するが、中国やロシアなどの欧米諸国に対する反発の理由の中には、このような欧米による価値観の押し付けに一端があることは間違い無い。プーチンや習近平のスピーチなどをしっかり観てみると、欧米の驕りに対する批判としてはすごくまともなことを言っていることもある。

英語の言論における論理性や客観性の主観性

私は論理や客観性は非常に重要だと思う一方で、これらは一面的である場合が多いので、過信するべきではない。厳密にいうと、論理や客観性にも価値観などの主観性が介在するが、それに気づくことが難しい、ということだ。

自然科学の分野でさえ、「科学的」なエビデンスがあるということは、必ずしも正しいことを意味しない。自然科学やまた統計でも、サンプルの作為的な抽出や偏見、無自覚な価値観の介入により結果は必ずしも中立的で正確ではない。科学にも主観性が介在するのだ。

医学が特に良い例だ。西洋医学では問題を抱える身体の部分、東洋医学では身体全体を観る。場合によるが、東洋医学が西洋医学に劣っているということは必ずしもない。「論理的」で「客観的」な西洋医学が治せず、東洋医学が治せるものもあります。

論理性は高い方がいいが、論理的に正しい(ように思われる)からといってその結論が必ずしも正しいとは限らないことを意識するべきだ。

「客観的」とされるものは、欧米の主観的イデオロギーに基づいた「客観性」の条件を満たすだけで、他の文化圏で相容れないことも少なくありません。

また、私が学んだ社会学は、欧米圏で生まれ発展してきた学問だ。しかしこれはそもそも個人(individual)から成り立つ社会(Society)という、日本と異なる土壌での出来事に関する学問であり、理論をそのまま日本に当てはめることはできない。阿部謹也氏によると、日本に存在するのは個人から成る社会ではなく、世間だ。日本における労働問題で、労働者を守る法律が上手く作用しないのも、個人が全体と対決できる欧米社会を基にした法律という概念が、個人が世間に対決できない日本社会に合っていないからと解釈することができる。

しかし、学問で生産される知は普遍的なものでなければならないので、社会学において「欧米社会では」という理論の適応可能範囲が示されることが特に昔の文献ではない。これにより、その「論理的」で「客観的」な理論が普遍的であるかのように提示される。

欧米社会の提示する価値観が、先進的で普遍的なものであるという思い込みは、全く客観的でも論理的でもない。

カタカナ語問題解決のための提案


以上を踏まえて、私は以下を提案したい。

  • 「日本語に問題なく置き換えられるカタカナ語」と「カタカナで表記することが一般的でない上に、カタカナ表記する特別な意味がないカタカナ語」は使用を避け、日本語で表記する

  • その表記が一般的か不明なカタカナ語を用いる場合は、日本語による補足を入れる


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