見出し画像

横丁暮色 その1~我らが心の歴史遺産~


◆消える街

 過疎地にUターンし、仙人の生活をしていたわけではないが、世事には疎くなっていた。
 里心がつき、昔通った飲み屋街が懐かしくなってきた。最も再訪したい街が、池袋の人世横丁だった。
「盲導犬のエヴァンを連れて、もう一度飲みに行くのだ」
と、心に期するものがあった。
 最近、人世横丁のことをウェブで調べる機会があった。なんと、2008年に、再開発により、横丁の灯が消えていたのである。
 いずれこんな時代が来ることは分かっていた。私が足しげく通っていた1990年代にも、地上げ屋が暗躍し「そこまで来ているのよ」と、胸を高ぶらせていたママがいた。

 

◆灯りに引かれ


 私が人世横丁を知ったのは20代後半だった。
 大阪の会社に勤めていて、ときおり東京に出張していた。東京支社長だった専務が案内してくれたのが、人世横丁だった。1階にカウンターと調理場、奥にトイレ、2階はたいていママの住居になっていた。
 やがて東京転勤となり、お定まりのゴタゴタに巻き込まれて独立・開業した。30代半ばだった。池袋の六つ又ロータリーの近く、ビルとは名ばかり、木造2階建ての雑居ビルに入った。ある夏、焼け出され、サンシャイン横のマンションに引っ越した。仕事を終え、池袋駅に急いでいると、飲み屋街に明かりが灯り始める。そこで再び目にしたのが、人世横丁の店だった。
 暖簾(のれん)をくぐり、専務の話をすると
「そんな人、知らないわよ」
 と軽くあしらわれた。
(確かに、この店だったはずなのだが……)

  

◆おっかさんの店


 ママは新潟生まれと聞いた。若い頃、秋葉原かどこかで飲み屋をやっていた、という話だった。
 昭和の写真集から切り抜いたような店だった。あるのは日本酒とビール、突き出しは漬物が中心だった。なじみになり、焼酎をおいてもらったが、気が抜けなかった。グラスに勝手に氷を入れるのである。
「今、何したの?」
 問うと
「氷が解けちゃったみたいだから、入れたの」
「それはいいけど、素手で氷を入れる店がどこにある!」
 怒ると、えへへと笑う。
 寒い地方の生まれなので、塩辛いものをよく出した。漬物などはそれだけでおいしいのに、無造作に醤油をかける。たっぷりと。塩分取りすぎになるよ、と注意すると、えへへと笑う。万事この調子だった。
 いつもエプロン姿だった。私の仲間の間では「おっかさんの店に行こう」と言えば、通じた。

向かって左からT君、筆者、おっかさん、綱取名人

 

◆ママは気は優しく力持ち


 ほかにも行きつけの店が何軒かあり、よく通った。私もまた、人世横丁の風景の一部になっていたのかも知れない。
 おっかさんの店の裏に、一風変わったスナックがあった。ここも2階建て。トイレが2階にあったが、階段はない。太いロープを伝って用足しに行った。ロック・クライミング気分が味わえた。
 店主は体格のいい、男とも女ともつかない人だった。いがぐり頭の従業員がいて、お姐言葉を使う。カウンターの中にはスカートを履いた従業員。高校を卒業して上京し、もらった給料で思いっきりオシャレして田舎に帰ったところ「女を生んだ覚えはない。もう戻ってくるな」と言われたらしい。

 ある時、疲れはててスナックに寄った。視覚障害者団体の機関誌を作っていて、なんとか製本まではこぎつけることができた。翌日、郵便局へ出しに行かなければならない。考えただけで、ため息が出た。
「いいわよ。明日、午前中なら手伝ってあげるわよ」
 ママが私の事務所に現れた。前夜のスカートはジーパンに履き替え、台車をゴロゴロと押して来た。
 有難かった。一方で、抜き差しならないところにきているのでは、という気持ちもあった。しかし、有為転変。私の目の症状が進み、転職を余儀なくされる事態となった。鍼灸マッサージ師の免許を取るために専門学校に入学した。世紀が改まった2001年4月のことだった。

 

◆肩の荷を下ろして



 卒業した2004年の6月だったか、護国寺で東洋医学の研究会があり、私が事例報告をすることになった。その帰りに寄ったのが人世横丁に顔を出した最後だった、と記憶していた。連れが大騒ぎし、ママに迷惑をかけてしまった。ずっと心残りだったが、このたび、意外なことが判明した。私が最後に人世横丁を訪れたのは、2007年3月26日。なんと高校3年次のクラスメートで、学部こそ違え大学が同じだった親友3人で飲みに行っていたのである。

 証拠写真がある。おっかさんも写真に収まっている。その顔を見て、2004年の無礼は水に流してもらえた気がした。友人によれば、よほど未練があったのか、その夜、2回、おっかさんの店を訪れたらしい。人世横丁が池袋から姿を消したのは、翌年夏だった。
   (写真提供:綱取名人)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?