太公望

 川釣りが好きだった。
 Uターンし、ほぼ毎週のように、釣糸を垂れた。廃校になった母校の保健室に治療院の分室を開設していて、終業時刻を待ちかねて釣り場に急いだものだった。

 ◆大物ヒット
 目が悪いので、川に降りては行けない。橋の上から釣るのである。大小のウグイが釣れた。もちろん、リリースするが、一度だけ食べたことがあった。
 上流に投げたはずなのに、竿の先は下流に向いている。「流されたのだろう」とリールを巻き始めるや、強烈な手ごたえがあった。なんとか釣り上げたが、竿の先は割れていた。約50センチの大物だった。
 リリースは頭になかった。いつものバスが来たので、飛び乗った。運転手も獲物の大きさに驚きの声を上げた。行きつけの飲食店の前で降ろしてもらう。マスターに調理をお願いすると、から揚げにしてくれた。妻も駆けつけ、二人で舌鼓を打った。

 ◆名人に囲まれ
 その頃、埼玉県I市の治療院と掛け持ちしていて、毎週往復していた。
 I市には川魚料理屋があった。店長が釣りの名人として知られ、私が店に寄ると、四国の釣りのことを訊いてきた。店長がDVDを出したので購入すると「渓友 向井健市(注:私の本名)さんへ」とサインしてくれた。
 恥ずかしかった。店長は大きな勘違いをしている。
 地元でタクシーに乗った時にも、同じ思いをした。
 そのドライバーも無類の釣り好きだった。細かいことを訊いてくる。私は釣りの話を聞くのは好きだが、話すのは気乗りしなかった。初心者であることがバレるからだ。

 ◆潮時
 最初に「釣りが好きだった」と過去形で書いた。物事には始まりがあれば、終わりもある。
 分室での仕事を終え、バスが来るまでの一時間くらいの間に釣っていた。そのうち、テグスが見えにくくなり、準備に大層時間がかかるようになった。
 その日、やっとの思いで釣りを始めると、母親と中学生らしい男子が通りかかった。クルマを降りて来て、私の魚籠(びく)を覗き込んでいる。「釣ってみる?」と息子に竿を渡す。すぐ釣り上げた。「上手だね」と誉めると「あんなにたくさんいますから」と言う。
 目が悪いことを説明し「そんなにいるのですか?」と質問した。
「ええ。小学生に雨が降っている絵を描かせたら、あんな風に描くでしょうね」と母親。分かったような分からないような。ただ、私にショックを与えたことだけは確かだった。
(今まで、そんなところにエサを入れて釣ってたんだ!)
 いい潮時だった。

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