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私の生きている意味

愛されたいなら愛しなさい、とか

愛されない人生なら、愛せる人を見つけて生きて行きなさい、とか

無償の愛ってもらえないと後々しんどいよね。

いつも思うんだけど、そういうセリフ言える人って無償の愛をもらえた人だと思うんだ。

私は前のnoteで書いた通り母が9歳の時に死んだ。母が生きてる間、幸せだった時もあったからその時の記憶を引き出しの奥から取り出して少し眺めてはまた大事にしまう。
台風が来て停電になって、ちらし寿司を作って食べた日。母の仕事が残っていて保育園の帰りに会社に寄って待たせてもらう間に回転する椅子で廻りすぎて酔った事。確か、家の製図やイラストを描いたり模型を作ったりしていたりをしていたはずで、その色鉛筆を自由に使わせてもらった事。母は本が好きで、たくさんの本の中から絵が多い本を選んでは母の隣でめくってみたり。
そんな事を少しずつ思い出してはまた普通の生活をしようと頑張る。

そんな事をしてると擦り切れていくんだよね、何かが。もう声も思い出せない母に、なんとか会いたくて自殺しようとした事もあったけど、最後の一歩が勇気出なくて死にきれなくてズルズルと自分も誰かに愛なんか求めちゃったりなんかして、中途半端にこの世に未練なんかあったりなんかして、最後まで行けないのが私だなって思う。しかも会えるかどうか分からないよね?だって死んだ後ってみんな知らないじゃん?母にも会えずに今死ぬの?って考えたら、いやいややっぱ今はダメよって思う。

子供への愛情も自分が愛情かけてるつもりでもそれが正解なのか不正解なのか全くもって分かんない!なんぞそれ(笑)私の母親レベル低すぎな(笑)とか思うけど何が正解なのか分からなくて自問自答の日々。


それでも最初に書いた通り、娘と息子には私に愛された記憶を沢山持って生きて行って欲しいから、ずっと愛す。例え世間に顔向けできない、とても許されないことをしたとしても私だけは愛していきたい。それが自信になって、安心して誰かを愛す事が出来るなら、擦り切れそうな私が生きてる意味があるってもんだと思う。

#死にたい
#死ねない
#生きる意味

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