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伊藤和弘『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか?1959ー2009』星海社新書

1959年(昭和34年)3月17日は、日本で最初の週刊少年雑誌である「週刊少年マガジン」(講談社)と「週刊少年サンデー」(小学館)が同時に創刊された記念すべき日である。

当時は週刊誌ブームで、子どもの週刊誌があってもよいのではという発想であったようである。最初に創刊を考えたのは小学館であった。マンガを中心にした雑誌を出すことにより傑出したマンガ家を育てる。それを学年誌で使おうという野心があったらしい。

週刊少年マガジンの歴史は、当然ながら、そのライバルである週刊少年サンデーの歴史でもある。この2誌の競争が、マンガ家を育てたと言ってよいであろう。また、1968年(昭和43年)に創刊された「少年ジャンプ」は、新人マンガ家を多数輩出した。

子ども向けの「総合週刊誌」として創刊された少年マガジンの創刊号には、吉川英治の原作ものが2本もあり、野球マンガがなかった。創刊号20万5千部と、サンデーの30万部の後塵を拝している。

しかし、1961年(昭和36年)の1号から始まった『ちかいの魔球』の登場により、マガジンはサンデーを逆転する。原作は福本和也、作画はちばてつやであった。担当の宮原照夫(のち第4代編集長)は、中学生や高校生でも楽しめる本格的な野球マンガを目指した。

1966年(昭和41年)4月に連載が始まった『巨人の星』は、「すごい野球マンガはお前が作れ」という宮原を捕まえて言った局長の命令であった。原作梶原一輝、作画川崎のぼるである。川崎は、梶原から生原稿をもらっていた。4Bの鉛筆で書かれた原稿は、梶原の息づかいがわかり、興奮してきたと言う。

1968年(昭和43年)の1号から始まった『あしたのジョー』は原作梶原一輝(高森朝雄)、作画ちばてつや。梶原のデビュー作『勝利のかげに』が新人ボクサーを主人公にした短編小説であった。ちばは、梶原が原作に手を加えることを許した。冒頭やラストシーンなど、原作を大幅に変えた。

週刊少年マガジンは、週刊少年サンデーとともに、来年で創刊65年を迎える。現在の栗田宏俊編集長は、創刊100年で息子が編集長になることが夢だと言う。発行部数が減っても、利益は十分に出ているとも言う。自信の表れであるとともに、少年マンガの未来は明るい。






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