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そなた、人か獣か。

獣は宿る。あなたの中にも、わたしの中にも。

桜がアスファルトを飾る春の日、わたしは初めて猟師と山の中を歩いた。

本業・大工のムツさんは、60代中盤で山奥に一人暮らし。ここのあたりでは腕の利く猟師らしい。ひょんなことから狩猟を始めた私は、知り合いの紹介でムツさんに教えを乞うことになった。

獣の通り道、微かに残る獣の足跡、残された糞、草木の種類、、、。猟師と歩くと、何気ない里山には、何十匹もの猪や鹿の息遣いが迫ってくる。

春の陽気とは裏腹に、それは新鮮で強烈な世界だった。数メートル前を歩く猟師の目には何が見えているのか。野生動物に引けを取らない観察眼に憧れを覚えた。ムツさんは、人間界の誰よりも山に溶けこんでいた。

週に一度、ムツさんと山の中を2時間ほどかけて歩く。野生動物の足跡や糞の状態を観察して仕掛けた罠を見回っていた時の話。

見回りももう終わりがみえ、足場の不安定さに疲労を覚え始めた。そのとき、斜面上方からイノシシが転がるような速さで、目の前を駆け下りていったのだ。山の中で身動き自由なイノシシと対峙するほど怖いことはない。イノシシに突進されてその牙で太ももを狙われてみよう。動脈からの多量出血で死に至ることも容易だ。

「よかった、素通りしてくれて」

思わず、胸を撫で下ろした。


次の瞬間、ムツさんがイノシシの後を追いかけ出した。道なき山の斜面を、走る、というよりも半分滑り落ちるように。


「いや、無理でしょ」

鼻から漏れ出そうになる笑いを、ムツさんのいたって本気な背中が押し殺した。煮えたぎる本能と本能がぶつかり合おうとしていた。理性の居場所はそこにはなかった。あれは山に溶け込む者の真髄だったのかもしれない。

そのままイノシシはムツさんから逃げ切った。もし追いついたとして、ナタひとつで仕留めるつもりだったのだろうか。なぎ倒された斜面の草草。その先には手に持っていたナタを腰に戻すムツさんの背中。数秒後に踵を返すムツさんがどうか人間に戻っていますように、わたしはただそう願った。

イノシシに向けられたあのむき出しの本能は、間違いなくムツさんの体に駆け巡っている。彼の穏やかな表情、優しげな眼差しには、しかし隠しきれぬ鋭さが宿っているのだ。その獰猛な鋭さに狙われたら、あのイノシシのように逃げ切れるだろうか。そんな緊張がわたしの中に姿をはっきりと現したのだった。


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