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"それ以外のことを想起させる"

質量への憧憬 2019/1/26〜2/6 落合陽一個展

9時からのギャラリーツアーと10時からのトークセッションをまとめて体験してきた。その感想のような要約のようなもの。

ギャラリーツアーでは落合さんが写真の意図、何を考えていたかを説明する、アーティスト本人から作品の解説を聞けるとても贅沢な30分だ。入ってすぐは陽のあかりが入る明るい小部屋になっている。左側はコーヒーコーナーで、右側がスペースになっており大きなオブジェがある。恐竜の骨みたいだなと思っていて楽しみにしていた作品だった。落合さんも「この背骨のような植物」と説明していた。今日見たかったものの一つがこれだったので本人も似たようなことを思っていたのかと知って嬉しかった。

白い灯を使ったオブジェもいくつもあって、ツイッターでよく流れてきた。スマホで見ているときはいつも「こやつは蛇のようだよな」と思っていた。本物もやっぱりヘビみたいだった。敢えて蛇っぽくない写真に挑戦したのが下のだけれどやっぱりこの曲線は蛇っぽい。キレイ。残像が残るくらいその曲線だけが極端に明るいのがいい。その対比で周りの陰が際立つ。これも一つの陰翳礼讃かな。

思っていたより立体作品があってますますよかった。自分は立体好きだし、以前のフレネルレンズ作品もお気に入りだった。今度は障子のように四角く仕切られた作品で山紫水明の円窓と同じだ。落合さんはフレネルレンズを気に入っているのかな、と思う。本来の光の流れと逆だったり予想外の見え方をするのが良いのだろう(分かって使っているのだから予想外ということはないか)。額好き、枠線好きを自称する自分としても忘れずにいくつか写真に収めた。でもこの作品を写真に撮ってるヒトは多かったな。なんとなくだけど、こういう障子や格子などは日本人のDNAに入っているんじゃないかなぁと思う。

風の谷のブレードランナー

今日のトークセッションは写真家の奥山由之さん。申し訳ないけれど割とほとんど全然知らなかったからトークセッションが終わった今、奥山さんのサイトを見ている。ノスタルジックな写真だなぁ、と思う。女性3人の笑顔のアップの写真がある。色味を落としているのか逆に上げているのかわからないけれど色のコントラストがはっきりしている。その割に全体に色褪せしている。昭和の写真みたいだと思った。そういえば奥山さんはフィルムも使うらしい。時間が経った時に見え方が変わるという話をしていたが、昔のツールを使うと切り取った風景もその当時の風景のようになるのだな、と改めて思った。落合さんもオールドレンズを好んで使っている。コンピュータでは計算するのはめちゃくちゃ大変だと思わせるようなボケや歪みがいい、というようなことを言ってる。いろんなものがデジタル化してパキッとしてきている今、その計算外の歪みや偶然がノスタルジーを想起させるのか、人の力の及ばない何かを感じるのか。


奥山さんは、都市計画なく古いものと新しいものがぐちゃぐちゃに混在している東京が好きだと言っていた。似たようなことは落合さんも猪瀬さんも言っている。退廃した東京が緑に侵食されている、なるほど…部分的に見ていくとかわいい…かわいい?そうか、かわいいんだ…。そうやって見ていくと知らなかった"かわいい"を発見できそうに思った。この写真展は退廃と同時に生命感もある、そんな写真が多かった。どこか水っぽい?そんな感じ。
なお退廃とはすなわち風の谷のことで風の谷のブレードランナーとはメーヴェに"感電注意"などのシールがベタベタ貼られているようなそんなことらしい。悪くない(笑)。

質量

"質量"の定義はトークセッションの最初に深掘りされ、ちょこちょこトークの中で触れられて最後に改めて確認された。質量とはすなわち時間の奥行き、空間の広がりのこと。退廃した姿を写真に撮っているが、以前の生命に満ちていた時までを感じながらカメラに収める。ランプの周りの暖かい暗闇を感じる。煙り、空気感、匂い。

この写真は今回の質量への憧憬というテーマに合わせて撮った数少ない写真とのこと。大判に刷ってある。私はこれが一番好きで、見ているとこんな姿になるまでの時間の経過と偶然にもこんな姿になったことに対していろいろと考えてしまう。一番最初に目につくのは当然画面の真ん中を占めている鳥居のような鉄骨の骨組み。その鉄骨は朽ちてところどころ穴が空いており向こう側が透けてみえる。その鉄骨に幾重にか無造作に引っ掛けられている紐は風で右から左に流れている。そんなに細い紐ではないので風もそれなりに強いのだろう。鉄骨の骨組みの向こう側には鈍色の海が広がり、そのさらに先の対岸にはビルか海岸の工場かわからない無数の建造物がぼんやりと横一直線に並んでいる。そして鉄骨と海の間には細い紐で編まれた弱々しい網が張られている。おそらくその網の先は行ってはいけないという意思表示なのだろうが、網もほつれており時々人が出入りしてるような気配がする。さらに画面右には朽ちた電信柱のような鉄骨が沖へ向かって一直線に伸びている。これもまた焦点は定まってないのでその様子は定かではない。鉄の錆色、曇った海の鈍い銀色、海の色とあまり変わらない重い雲の空、薄い影色の遠くにある建造物、とカラフルとは言い難いカラー写真。その全体的に錆びた写真は時間の経過や空気感、匂い、音を伝えてくる。
一枚の写真を見てそれ以外のことを想起させる、写真に一見映っていない様々なものが"質量"である。

QA

Q:花など小さいものを大きく展示し風景など大きなものを小さな写真で展示するのは何か意図があるのか?
A:小さいものを小さいと思ってない。大きいもの、風景などは手元に置く為に小さく切りとっているという意識があるので、そんな感じだと思う。

Q:植物はコンピュータだと思っているというのとだが、ではコンピュータだと思わないものは何か?
A:強烈な陽射しなどコンピュータで計算しきれそうもないもの。よくわからないもの。娘。恋愛。妻。

#落合陽一 #奥山由之
#質量への憧憬





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