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ザ・ホワイトタイガー -THE WHITE TIGER atクラハ[20210801]

※clubhouseでの発表用メモを加筆修正したモノです。音声の文字起こしではありません。

製作 2021年 ヒンディー
監督 ラミン・バーラニ
出演 アダーシュ・ゴーラブ、ラージクマール・ラーオ、プリヤンカー・チョープラー

 一言で言えば”恐ろしい”映画でした。分かりやすく言えばカースト制度に縛られたインドの現実、しかしカーストを描くのではなくカースト制度をつかって、さらにもう一歩踏み込んだ「当たり前を疑わない人間の恐ろしさ」を描いてます。かつ、cloubhouseでたくさんの情報を補完してもらったのでわたし的に大変に充実した回になりました。ありがとうございます(^^)

★前半あらすじ(ネタバレちょいあり)

 インドのラジャスタン州のシーカル地区にある町ラグズマンガールに住む貧しい少年バルラムは好奇心旺盛、大家族が寝静まった夜中に懐中電灯を片手にこっそり本を読む、学校でもスバ抜けて学業の優秀。彼自身もそんな自分に期待をしていた。しかし奨学金をもらってデリーに行くはずだったはずだったある日、突然学校から呼び戻され、石炭割りをするようにと。そして学校はそれっきり。
そのまま数年後、兄と一緒にチャイ屋の下働きをする生活が続いていた。しかし冷静で鋭い観察眼をもつバルラムは
 自分が貧困層であること
 それ抗って報われずに死んだ父
 抗うことをあきらめた兄
 一家のすべての権力をもつ祖母
このまま祖母の言うなりでは父や兄とおなじ人生を歩むことになると冷静に分析していた。

 いまの生活から抜け出したいと常々考えていたバルラムは、ある日町の実力者の息子の姿を見かけ彼の運転手になる決意をする。家の仕事ではない仕事につくつもりなのかと文句を言う祖母に「稼ぎをすべて家に入れる」と約束し、口八丁手八丁でお屋敷に運転手として雇われることに成功。さらに、もともといた第一運転手の弱みを握り彼を追い出し、そうやってただのチャイ屋の下働きから制服を着て外国車に乗り、立派な主人に仕える身分になった。

 彼が主人と見初めたアショクはアメリカ帰りで妻ピンキーはアメリカ育ちのインド人。彼女はアメリカで学位をとり、カーストが違うがアショクと結婚した女性だった。カーストを気にしない(と見える)若い夫婦の運転手となり、この御主人夫婦こそが自分にとってのこれからの家族、尽くすべき人と使用人として誠心誠意勤め上げると決意を新たにする。そして運転手としてアショクに付いてデリーに行くことになる。

★ここから本気のネタバレand感想領域

 クラハのために改めて見直してみて、前半は割と明るいし、テンポもいいし、1回目みたときこんな楽しい映画だったかな…とおもったのですが、やはり後半の印象は記憶の通りでした。
・チェンナイ(マドラス)出身の作家兼ジャーナリストのアラヴィンド・アディガによる同名の小説が元になっています。2008年に発表、これがデビュー作でありのブッカー賞を受賞。邦題は『グローバリズム出づる処の殺人者より
・最初の方は賢く立ち回る主人公の成功譚、ずるがしこい立ち回りの彼に心から共感は出来るというわけではないですが、騙された側のバカ素直さや弱さにいら立ちつつテンポよくすすみます。このままわらしべ長者のような展開なのかな、とそんな期待も。

・後半のデリーにいっても急に変わるわけではありません。彼はどんなに野心があってもそのイメージは「使用人」です。彼の野望はあくまで”今よりいい主人に仕えたい”というもの。彼に染みついた支配者/被支配者の関係、支配者は支配することを当たり前と考え、被支配者は支配されることを望む。バルラムの強い忠誠心(彼にまとわりつく「使用人の血」)が彼自身をのっぴきならない状況に追い込みます。

・この支配/被支配の関係をこの映画の中では大変シンプルに表現します。「かつてはカーストは1000以上あったが今は二つしかない。”腹が膨れた人間”か”ぺちゃんこの人間"か」

・バルラムの心境の変化を表す台詞、モノローグを抜粋します。これ、必ずしもカーストでなくとも自分自身を縛っている何か、と置き換えられませんか…?

「主人がいないと使用人は成り立ちません」
   ↓
「偉大なムスリムの詩人イクバールは言います。
 ”この世で何が美しいか気づいた時ーーー人は奴隷をやめる”」
   ↓
「実感できて本望です。
 1日でも 1時間でも 1分だけでも、
 使用人でないことを意味を…」

「これからは茶色い人間と黄色い人間の時代だ」というセリフについて

 この映画、しょっぱなから面白いなと思うのは中国の温家宝主席に向かって語り掛けるという形ところ、面白いけどなぜ中国なのかな、と感じていました。そして映画の最後には「これからは茶色い人間と黄色い人間の時代だ」との台詞があります。

 実はこれ、最初は全然分かりませんでした。原作が舞台となったタイミングに合わせて温家宝首相のインド訪問にかこつけただけなのかな、と思っていました(2004年あたりから中国とインドが貿易に関して協力関係をむすびはじめ2010年には温家宝のインド訪問が実現)。しかしよく考えると、実はそんな表層的なことではなかったというのが見えてきます。中国もインドも数千年の間に世界を統一した/された国、世界に挑んたことのある国、その歴史を背負っているセリフだとしたら…?

 一方で日本と言えば黄金の国ジパングという夢の国、世界の端にあり世界と戦うことはほぼなく約二千年もの間ずっと安穏と発展してきた国、世界とガチで向き合ったのは直近の近現代の世界大戦ぐらいです(近現代以外の国際戦争は663年白村江の戦い1274年・1281年元寇1592年・1597年文禄・慶長の役(朝鮮出兵)等)。よっておそらくこの感覚は日本人には分からないのではないでしょうか(※別に日本が悪いと言っているわけではありません。あくまで地政学的な話)。「これからは茶色い人間と黄色い人間の時代だ」というセリフを聞いてインドの方はどう感じるのか、または欧米の方はどう思うのか、聞いてみたいです。

 カースト制度を描くだけでなく一歩踏み込み、普遍的なテーマになっています。強者も弱者も自分がそのことを疑わないから成り立っているという社会の構造が描かれてると感じました。だからこそのブッカー賞でありアカデミー賞脚色賞(※クラハにて指摘)なのでしょう。

★発表後

 正確な情報も頂いたので補足しつつ…まず作品はアカデミー賞脚色賞ノミネート、インド・アメリカ合作で監督はイラン系アメリカ人の監督、マイノリティ系の出自です。また原作者アラヴィンド・アディガはインド出身ですがOxfordに進みオーストラリア在住(?)、少なくともインドから出て外からインドを見ている、ということですね。ブッカー賞はイギリスの賞とのことで(無知でスミマセン…)。このマイノリティの視線やインドの実情を知る作者の視点が重なってこういったインドの光と闇を描き、かつそうそうかけないインドの闇に切り込むような作品になったのだと。

 しかし同時に感じるのが、世界向けのこの映画、これを描かせたのはイギリスをはじめとした欧米諸国の文化なのか?!またもや大英帝国にしてやられたのか?と頭の中がくらくらしてしまいました。エゲレスつよつよだぜぇ…。

 まじめな話をすれば、欧米諸国の「自分たちがいままでやってきたことをいろんな視点で振り返る、時代がすすめば新しい価値観で再検証」していくこの文化(習慣?)は結果的に常に自己補完を進めていくのでかなり頑強な文化になるかと。自然に身を任せ、たゆたっている日本の文化は超長期ではわかりませんが数百年単位ではなかなか勝てないだろうなと正直思ってしまいます。インドはどうなんだろう。

 そして映画の感想ですが、やっぱり「曲とダンスがないのが…ザンネン」めっちゃわかります!インド映画の歌とダンスはただのインドの特徴ではなく、ほんとに素晴らしいですからね!また「パラサイトっぽい」「ジョーカーっぽい」という感想もあるそうです。パラサイトは未見なので分かりませんが、ジョーカー…ほほう?個人的にはジョーカーは承認欲求の塊に見えたので通じるところとそもそも違うところがありそうで、でも社会に抑圧された立場の人間が主人公というのは通じますね。そういうをもっと聞いてみたいです!

 また旦那様をやったラージクマール・ラオ、LUDOにも出ていましたがよく見る人です。そう、「結婚は慎重に」のゲイカップルのパートナー役などチャレンジングな役をやる、とのことですがまさにそうですね~この人のが出ている作品は外れナシですね。

 主人公のアダーシュ・ゴーラブも最後にはモーコンの真田広之みたいで超カッコいいのですが、この作品で注目されるようになったとのこと!いやわかる。小柄なんだけど存在感があるんですよね。Junさん、Tomokoさん、Takakoさん、他たくさんの皆様ほんとにありがとうございました~。このあともどうぞ末永くよろしくお願いいたします。

★Songs

歌って踊る映画ではないのでトレイラーを。実は映画のなかで旦那様とバルラムが歌う歌が好きなんですが…見つけられず。ザンネンです。


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