見出し画像

ノーネイチャーネイティブなわたしたち②

はじめに
やまとわでは、私たちがどんな想いを持ち、どんな未来を見つめ、どんな事業を展開しているのかをまとめた「コンセプトブック」を、2024年春を目指してつくっています。

ここでは最近(2023年秋〜)の制作過程の様子をお伝えするだけでなく、プロジェクト発足当初(2022年12月〜)奥田さんに語ってもらった「コンセプトブックで伝えたいこと」をメンバーそれぞれの視点から振り返ったりしていきます。
七転び八起きなコンセプトブックづくりジャーニーを、一緒に楽しんでもらえたら嬉しいです。

前回の記事で内野さんが衝撃を受けたとつづった「ノーネイチャーネイティブ」話、じつは他の二人も印象に残ったエピソードでした。しかし、同じ話でも受け取り方が少し違ったようです。
今回はあさい目線でお送りします。


田んぼ見て「あ〜私の一部だわ」なんて思ったことなかった

「養老孟司さんが、自分の半分…むしろほとんどが自然からできているはずじゃないか、というようなことをよく仰ってるんですけど。」

奥田さんに、森と暮らしの関係性のリデザイン、という話をしてもらっていたとき、ふいに養老先生の名前が出てきました。

「『田畑や海、森のめぐみによって身体がつくられている。ごはんを食べる以上それら無くして自分の身体は作られないから、田んぼや里山を見た時に自分の一部だと思えるのではないか?』と言ってて、めっちゃいいなと思ったんです。」

大学の同級生の実家はまさに里山風景の中にあって、少し羨ましかった

その口調に熱の高まりを感じたのもあって「いい話…!」と思った一方、「そんな風に思ったことあったっけ?ないよね?」ってのが正直な感想でした。

たしかに毎日食事はとるし、パンやパスタとか小麦を主食とした食事が続くと必ずごはんとおみそ汁が恋しくなって、やっぱ日本人なんだなあとお米を炊く。
でも、そこそこシティ育ちだったわたしが見てきた田んぼの風景って、旅行で行った山間地域のそれか、年末年始や盆休みにおばあちゃんちに行くまでの道中でチラリと視界に入っていたもの程度(どちらの祖父母宅も地方都市にあり、田んぼはあるもののそう多くはない)。

田んぼや里山の風景は、わたしの成長記憶メモリーにはなかったのでした。Not Found.

生まれた時から、ノーネイチャーネイティブ世代

昔の記憶に自然を見つけられなくて途方に暮れていることなどつゆ知らず、奥田さんは続けます。

「自然を身体は密接につながっている。だけど現代のぼくたちはそう感じられない暮らしをしている。そうなったのって日本で言えば高度経済成長以後のここ数十年の話だと思うんです。」
「ぼくらは、自然と個人の身体性が離れてしまった『ノーネイチャーネイティブ世代』なんですよね。」

ノーネイチャーネイティブ!Nがみっつ!
その言葉に、スコーンと頭をはたかれた気持ちになりました。

思い返せば、幼稚園や小学校の授業で森や山にいったことはあったけど日常で自然を感じるシーンはほとんどなく育ちました。それよりも、目の前のすべきことに注目し注力することが、当たり前の社会で生きています。

「すべきこと」の多くは勉強や仕事。はたまたスポーツや音楽等の場合もありますが、いずれにせよ”活動”を指していて、自然がそこにあることや自然と共にあることのような”状態”は注目されないし優先度が低い。
まさに、ノーネイチャーネイティブ世代なのでした。

そりゃあお米やおみそ汁が恋しくなることはあっても、田んぼをみて「身体の一部だ」と思えなくても仕方ないのかもしれない。

名前も知らない花の蜜が楽しみだった、帰り道

そう安堵する一方で、ちょっと寂しく感じる自分もいました。
自分の身体の中には自然が息づいていない。仕方ないけれど、なんだか寂しい。ほんとうにつながりは何もないんだろうか?

ふと、小さな紫の花のことを思い出しました。

小学校までの15分の登下校ルートの中に、数十メートル間隔で道のコンクリが一部切り取られて草花が生えている歩道がありました。
人の手が入っている花壇ではなく、いろんな草花が勝手にニョキニョキ育っていたのですが、季節になると小さな紫の花がたくさん咲きました。その花は、そーっと摘み取って花弁が合わさっているあたりをチュッと吸うと甘い蜜を飲むことができました。

榎本さん内野さんが「ところで何の花だったんだろう?」と、わたしの昔の記憶を掘り下げてくれた結果「ホトケノザ」だったことが判明…!(二人はツツジを吸っていた勢でした)

その”蜜吸い”にメチャメチャはまりました。
朝はまっすぐ学校に向かわないと間に合わないのもあって、帰りのお楽しみ。花のもと?のあたりがぷくっとしているやつは蜜をたくさん蓄えているから見つけると心躍ったし、ある日は既に吸われた花の残骸が道にパラパラと落ちていて悔しい思いもしました。

よかった。
この小さな紫の花の話を自然とのつながりとして捉えて良いのかは要審議だけど、わたしにだって思い出せるシーンがあったのです。
なんか、ちょっと救われたような気がしました。

だから、社会のデザインを変えよう

「生まれたときからノーネイチャーネイティブ世代のぼくらは自然と身体がつながっていた感覚を想像できないんですけど、そうなったのはここ50年の結構新しいデザインですよね。
『じゃあもっといいデザインってあるんじゃない?』って、自然と暮らしの関係性をデザインし直すことが重要じゃないか?って話ですよね。」

ノーネイチャーネイティブ世代が、自然と人間の関係性をふり返ることなく現状の社会デザインを歩み続けていったら、そのノーネイチャー純度を高めながら次世代が生まれる一方。

わたしには小さな紫色の花と過ごした日々が辛うじてあったけど、それすら出会わずに成長し、社会に出ていく人が増えていってしまいます。
社会って、時間って、そういうものなのかもしれないけど、やっぱりどこか寂しい。

ここ50年。
高度経済成長からの社会の変化はすこぶる目まぐるしいし、それはとても強力なシステム。わたしたちを幸せにもしたけど、恩恵はもう十分受け取った。
いま、何もしないわけにはいかないよね。なんて感じたのでした。(あさい)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?