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雪 石崎光瑤

 2月1日。棟方志功のガハハハッとした笑顔が見たくて、南砺市立福光美術館へ。大雪の間、行きたくて行きたくてたまらなかった。仕事が終わった瞬間、ダッシュで車を走らせた。
 何気に初めて行ったのですが、常設展を310円で見て、本当に良いの!?となる、素晴らしいコレクションでした。棟方志功の棟方志功っぷりに大いに励まされながらも、石崎光瑤(いしざきこうよう)の作品にぽろぽろ涙が出てしまった。
 
 雪なんて見あきたと思っていた。彼の作品を見るまでは。
 
 大きな屏風絵が二つ。左の金屏風のほうは、杉の木にたっぷりと雪が乗っている。なんか浮遊感があるなあと思って見ていたのだけど、2階の窓から真横にある大きな木を見ているような、不思議な目線の高さを感じた。枝をつかみ、わさわさっと揺すれば、ぼろぼろっと塊で落ちてきそうな、雪。画面の向こう側には雪がついていないように見えるので、おそらく鑑賞者のほうから吹き付けるように降ったのであろう。
 右の銀屏風のほうは、川の中で鴨が泳いでいる。先日行った青森の奥入瀬渓谷を思い出した。画面上からツタみたいなものが垂れ下がってきており、雪がその節々に塊となってくっついている。おばあちゃんちにあるビーズののれんのように、向こうが見えているんだけど、はっきりとは見させてくれない。雪の降る日の、視界が狭まった感じそのままで、思わず目を細めながら鴨のいる風景に近づこうとする。でも、できない。絵画だから。
 
 絵画の中に入れたら良いのに。いや、絵画は世界と完璧に断絶されているから良いのだ。触れたくても触れられない画面の中を、想像の中で旅をする。彼の描いた雪を、私はこれからもあちこちで見かけるだろう。現実の風景と重なり、心の中で静かに静かに降り積もる。
 
 石崎光瑤は、民間人として初めて剱岳に登頂した人としても知られている。まさに、触れたくても触れられない世界を目指した男。きっと、なにもかもを見てしまいたかったんだろうなあと思う。見て、見て、見まくって、きちんと自分の世界にしたものを、画面に描きたかったのだろう。
 だから、彼の線には臨場感があり、鋭い。鶴の羽一枚とっても、鋭い。きっと命がけで描いたのだ。まるで山を登るように。一歩踏み落としてしまえば死んでしまうような、細く険しい稜線の上を歩んでいるかのような描写。彼の生への執着が、そのまま指先から絵筆に移っている。
 
 南砺から見る劔は遠い。その遠さは、彼の憧れを募らせたのだろう。憧れが強いほど、試練を超えてゆける。
 
 想像だけでは知りえない、雪そのものの迫力。きれいなだけではない、生命を覆いつくしてしまう情け容赦のない自然の脅威だ。そういった、“雪”というものの本質を、自分で捉えてきたからこそ描けるもの。
 この屏風に描かれているのは、ただの雪景色ではなく、彼が今まで見てきた全ての雪が内包されている。神様は、富山の自然にふさわしい天才を生み出したのだなあ。彼の鋭い目で見たものを、100年後の私が作品を通して見ることができて、本当に幸せだ。
 
 雪は溶けて水になり、川を下り海へ。そしていつか天に上り、再び雪として降り積もる。大正9年の雪は、今降り積もっている雪と本質的には変わらないのではないか。

 あなたの見た剱岳の雪を、今私も目にしているのかもしれない。そうだといいな。

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