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平標山

梅雨がなく、雨季でも週末は必ず山にいた令和元年。しかし、9月末からは3週連続、秋雨のなかの山登りとなっていた。

週末や休日に雨が襲うという悲劇。偶然なのか必然なのか、令和という元号は気象との闘いの時代。

谷川連峰・平標山(たいらっぴょうやま)の雨を予想したのはヤマテンだけだった。他はすべて晴れ予報で、引っかかった登山者は多い。

ヤマテンの代表である猪熊さんが栗城史多さんと対談されて以来、4年以上お世話になっている。猪熊さんに初めてお会いしたとき、ボクを指して「栗城さん、クライマーの方ですか?」と言われたことがうれしく、山屋や岳人ではなく「クライマー」と名乗るようになった。

10月20日(日)、新宿駅の始発で先輩の待つ西大宮へ。毎回、戸田公園で日の出を見るのが楽しみだったが、今は西大宮に着いても辺りは夜明け前。秋が深まりつつあり、季節の移り変わりは感慨深い。

この時、大失態を犯してしまった。着替えを入れたミレーのトラベルバッグを座席に忘れてしまう。ショックなのは数々の雪山を共にした冬用のズボンが入っていたことだ。

エヴェレストにも一緒に行き、寒さや風雪から身を守ってくれた思い出がある。朝ご飯を食べた松屋からJR忘れ物センターに電話しても届け出がない。少し落ち込んだスタートとなってしまった。


平標山の登山口は上州を越えて越後に入った苗場にある。群馬・新潟両県を合わせた上越に位置する山だ。上越という響きがいい。

高山植物が咲き乱れる夏は満車になる駐車場も、あいにくの天候でガラガラ。再びJRに電話をするもトラベルバッグは届いていない。


9時1分、気を取り直して単独で平標山、仙ノ倉山を目指す。先輩は平標山までなので別行動とし、下山時の小屋で合流することにした。

平標山は出だしから急登。ウォームアップされていない脚にはつらい。鉄塔もガスの中だが、どこかゴジラに見えて幻想的でもある。

松手山を越えると稜線が顔を出す。晴れていれば谷川連峰の絶景が見れたのだろうか?答えは霧の中である。

登山開始から1時間40分で、平標山の山頂へ。
標高1983m。1983年(昭和58)生まれの年男が亥年に、しかも誕生月の10月に登頂できた意味は大きい。

昭和の終焉に近い1983年は『北斗の拳』の連載が始まり、映画『アウトサイダー』『竜二』が公開された。孤高を好む自分の性格も無関係ではないと思っている。

休む間もなく仙ノ倉山へ。古来より麓の三国村の人々は平標山と仙ノ倉山を一つにして『大源太山(だいげんたやま)』と呼んだ。

距離の近い山を分けることは好まないが、この2座は別としたい。平標山はそれだけで個性を持った山であり、仙ノ倉山も谷川連峰の最高峰(2026m)という名誉を持つ。

2時間15分で到着した仙ノ倉山の頂上もガスで何も見えず。本来なら富士山をはじめ、名山の四面楚歌たる最高の山岳展望が待っていたに違いない。次回の登頂に思いを馳せよう。

一路、平標山へ戻るが雨脚が強くなる。眼鏡ワイパーがないと全く前が見えず、メガネを外しての登山。視力が0.1以下で乱視もキツく、目の前がボヤけているのは言うまでもない。

整備された登山道でなければ危なかったところだ。それに谷川連峰は台風の被害がなかったことも幸いした。日頃から強風に煽られている強さなのだろう。各地では倒壊した登山道が多いなか驚きである。裸眼で歩けたのも、この勇ましい山地のおかげだ。

恨めしいことに、下った頃になってようやく霧が晴れはじめ、秋の平標山が顔を出した。紅葉はないが彩りに見惚れてしまう。

経営45年という平標山ノ家で美味い湧き水と400円のココアを頂きながら、登山者の2人と山話に花を咲かせる。強風の影響からか、この小屋は夏でも25℃を超えることはないという。

小屋での話題は、今年あった鍋割山で雷の落雷事故、仙ノ倉山での遭難など、哀しい話が多くなる。外に出るとテン泊の登山者が多い。晴れ渡った夕暮れに、美しい山容を望めただろう。山小屋の憩いは登山の最大の楽しみである。

平元新道を下る頃には、いよいよ太陽までも顔を出した。標高1983mという特別な数字を持つ我が山・平標山。次に来るときは雪山だ。赤い平標山に、幻の雪を見ている。

すっかり夜も遅くなり、帰りの駒寄SAで食べた上州豚のトンカツが美味だった。特に白米と味噌汁が絶品。最近のサービスエリアは馬鹿にできたものではない。

そして、無事に返ってきたのは体だけではない。紛失したミレーのトラベルバッグがなんと新宿駅に戻っていた。幸運と多謝。感謝を胸に令和の冬山へ向かう。

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