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肘折♨湯治行

 休日にいくつかの選択肢の中に何もしないという項目があったとしたら、果たしてそれを選ぶことはあるだろうか?

 日本の山岳面積は75%、森林面積は約66%、約三分の二は森でできている。新幹線で通り過ぎていく景色をぼんやり眺めながらそんなことを考えていた。
 ある程度の都会で暮らしていると、ふとみどりの方が少数派のような景観ばかりで忘れがちだけど、こうして東京から離れてみると、本来そういうものだったなと思ったりする。
 流れていく景色は、次々と山や森を越え、街が出現し、また山や森を通り過ぎていった。

 私は東京駅から山形の新庄へと新幹線で向かっていた。季節は残雪の存在が頭からすっかり消えた春だった。新幹線で三時間三十分、バスでそこから一時間。家からだと片道五時間かかってようやくたどり着く場所が肘折温泉だ。
 肘折希望大橋と呼ばれるループ状の橋を下ったすぐ先にある、四方を山に囲まれた小さな温泉地、当然コンビニは無い。

 山形の温泉というと、近頃は銀山温泉が景観も相まって観光客が押し寄せている。私はそういったものとは極力距離をおきたくて、一人こうして平日に肘折へと向かう。
 この場所はどこか時間の流れもゆったりとして、湯治の文化が色濃く漂っている。訪れているのは湯治客やお年寄りが圧倒的に多く、通りに面して宿や旅館が軒を連ねている。

 バスを降りると、宿の女将がバス停まで迎えに来てくれていた。予約の際に時間を伝えておいたからだろう。
 聞かれるままに名前を告げると宿へと誘われた。玄関の引き戸を開け、スリッパに履き替え、ソファに座りながら記帳し、館主から簡単な説明を受けた。
 夫婦で経営されているのだろうか、とても腰が低く丁寧にこの湯治宿に若い人は殆ど来ないと、どこか申し訳なさそうにしていた。
 部屋に案内されて、何もないところですがゆっくりしていってくださいとお辞儀をされた、こちらもお世話になりますとお辞儀をして伝えた。
 早速用意してきた楽な服に着替えた、浴衣は有料だ。湯治宿はなんどか経験があったが、場所によってさまざまなので、ある程度は調べて分からない事は素直に正直に聞いた方がいい。
 不安な人はネットなどで予約を取る前に電話で相談するのも良いだろう。一泊二日ならば大抵の事はなんとかなるだろうが、連泊する以上できるだけストレスになりそうな事は排除しておいた方がよい。お互いのためでもある。

 館内は古さは感じられるものの、丁寧に清掃されて清潔だった。洗濯機もあり、自炊できる炊事場もあった。風呂は二つ時間によって男女が入れ替えられ、入り口にどちらかの表札が立てられる。清掃時以外は二四時間入ることができる。
 トイレついでにある程度館内を見回して部屋に戻った、ポットでお茶をいれ、『ほていやの饅頭』をいただいて、ゆっくりと過ごしていた。
 用意された部屋はドア付きの個室だった、部屋によっては襖で隣室を隔てただけのものもあるのだが、空きがあったか、気を使ってくれたのかもしれない。
 夕方五時半頃に夕食の声が掛かった。食事は基本的に部屋食で、朱色のお膳に乗って運ばれる、それをドアの前で受け取り、食べ終わったら部屋の外の廊下や通路へ出しておく。
 一汁三菜の魚がメインの湯治食だった。観光地の豪華な宿の飯も良いが、湯治では胃腸にやさしいこういった食事がとてもありがたかった。もちろん味付けも抜群で美味しかった。

 この日は宿に着いてすぐ岩風呂に入り、夕食後に歯を磨き名物の金魚風呂に入った。ここのルールとして風呂の入り口でスリッパを脱いでおいておく、そうすると他の人が浴室に入ってくることはなかった、暗黙の了解のようだった。
 源泉かけ流しで浴槽からそのまま溢れている新鮮な温泉だ。温度が高いため、井戸水を加水し温度調整する。岩風呂も良かったが金魚湯は特に良かった、金魚を眺めているだけで時間がゆっくり溶けていった。
 毎回のことだが初日は借りてきた猫のように、どこか他人の家に厄介になってしまったような落ち着かない心持ちでひっそりと過ごした。
 二十一時になると通路などの灯りは最小限になった。多分通いのスタッフも帰宅するのだろう。
 私は移動の疲れや温泉に浸かった事で体が重く気怠く感じていた、この日はそうそうに布団に入って寝てしまうことにした。

 翌朝の五時前には既に目を覚ましていた。初日は環境の違いもあって夜中に何度か目を覚ましてしまった。朝六時からは肘折名物の朝市が始まる、宿が立ち並ぶ通りに商品を並べて、野菜や山菜など旬のもの、手作りのものが並ぶ。ある種の交流場でもあるようだ。
 朝食は朝の八時からだった、この時に湯治で連泊している人向けに簡単な昼食を用意しているが必要かどうかを聞かれた。少し作業したい事もあったため、昼食を頂くことにして、その後出かけることに決めた。
 朝食も相変わらず美味い。昼はチャーハン、一口目でうまい。

福神漬けや梅干し入りの汁物もありがたい

 肘折は共同浴場でシンボル的な上ノ湯、温泉街の外れにある肘折いでゆ館、橋を越えた少し先にあるカルデラ温泉館がある。

上ノ湯 (画像はHPのもの)

 肘折にくるたび全て一度は訪れている。宿の方からは特に上ノ湯を勧められる。地元の人にとっても特別な存在なのだろう。源泉は建物すぐ裏にある。以前は宿泊客はチケットのみ持参し無料で入る事ができたが、2024年現在、宿泊客用の割引券+100円となっている。脱衣所は簡易なものなので貴重品は宿に預けてチケットと100円を握りしめていくと良い。

肘折いでゆ館の外観

 昼食後、散歩ついでに、いでゆ館でゆっくり過ごし、夕方四時頃に上ノ湯へ行った。湯治場特有かもしれないが、温泉で長湯する人をほとんど見かけない。どこか純粋に湯に浸かりさっぱりと上がっていく人が多い。マナーも良い人が多いようにみられた。
 これは泊っている宿でもそうだが、風呂桶や座椅子など使ったらきちんと戻し整頓されていた。観光地では見かけない光景だった。
 風呂上がりにカネヤマ商店でお酒とつまみを買って宿へと戻った。このカネヤマ商店は角打ちコーナーもあって、風呂上りに一杯なんてお酒好きには堪らないだろう。泊っている宿から一番近い商店というのもあり、たびたびお世話になった。

 夕食を食べて、本を読んで、また湯に浸かり、部屋で晩酌をした。

 ここまででお分かりだと思うが、基本的には何もしないし、何も起こらない。人生を本にした時、この項目はまず端折られるに違いないだろう。
 こういう人生の空白を好ましく思うような御仁には、こっそりこの肘折温泉をおすすめしたい。

 温泉と、食事と、散歩と、読書と、睡眠。何もせずゆっくりと心と体を癒しに行く、ずっと宿の温泉に入り昼寝をしながら過ごすのもいい。
 こういう場所は見つからず、できるだけ今の雰囲気のままあり続けてくれたらと思いつつ、昔と今ではだいぶ違うだろうし、ずっと変わらないものなどない事を知っているので、時々帰省するような感覚で、大切な場所の一つとして、これからも通い見守っていきたい。

 この時は三泊四日と短めだったが、食事付きの宿泊費は2万とちょっとで、やはり交通費のほうが高くついた。
 帰りのバスに乗ると、ゆっくりと温泉街を抜けていく。宿から女将さんやスタッフの人が出てきて手を振って見送ってくれる。最後まであたたかい気持ちになって帰路についた。


おすすめの場所モノ

ほていや饅頭
甘すぎず重くもなく食べやすく美味しい。予約をすれば蒸したてのものを宿まで配達してくれるとか。

こちらもHPの画像を拝借

そば処 寿屋
ざるにもワサビではなく、一味で頂く。
『ひじおりとうふ』や焼き油あげの『ざぶとん』もうまい、酒のツマミにも良い。近所にあったら絶対毎週通う。

天ざる(HPより)
ざぶとん(HPより)


カルデラ館

定休日と現在食堂はやっていないので注意

時間交代の露天があったり、飲泉できる炭酸泉がある。炭酸泉は内湯で部分浴も可。歩くと結構距離がある。


最後に
 ガイドブックみたいに気を付けるべき点やおすすめの宿、持っていくと便利なものなど、そういった事を一通り書こうとしてやめた。この文章も未だに何を書けばよいのか本当のところよく分からない。語りたいことは沢山あるし、全て語らなくても良い事のように思える。
 やはり願わくば、自身の目で見て体験して欲しい。今回たまたま肘折だったが決して万人にお薦めするわけでない、自身に合う温泉地は別の場所にあるかも知れない。
 この場所に限らず、シンプルにたまには遠くへ行って休んでみるっていうのは、日常から遠ざかるという意味でも良いものだと思う。

 残念ながら短期間では湯治本来の効能は得られない。現代版のプチ湯治というのは身体的な不調というより、ストレスや脳の疲労回復に向いているように思う。
 現代人にはうってつけだが、休んでいる間は極力テレビやスマホからは距離を置くよう心掛けてみて欲しい。何かと時短が尊ばれ空白を埋めたがる現代だが、私個人としては空白を出来るだけ引き延ばしたいと思っている、空白の中でしか見つけられないものは確かにあるような気がしている。


 ここまで書いてなんだが、湯治宿はどうしても生活音など気になってしまう部分があったり、トイレも部屋には無く共同だったり、宿や場所によっての相性や許容できることが人によって様々だと思うので、神経質な人は、無理をせず旅館やホテルを選んだ方が良い。
 また湯治の入り口として肘折のような場所はいかにもハードルが高そうに思える。それならまず関東からは草津をお勧めする。理由はいくつかあるが、圧倒的に人の数と店が多い。カフェもコンビニもある。休日は混雑がつきまとうが平日は幾分ゆったりできるだろう。また朝食のみ付いているプランがあったり、選択肢が多いので自身のスタイルを模索したりするのにうってつけ、出かける場所が多く時間を持て余す心配が無い。

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