文章を読み返して恥じることは、未熟な自分と向き合うこと

自分の書いた文章を読み返すと良いなと思える文章もあれば、恥ずかしいなと感じるものもある。いや、多分後者の方がおおい。なんで、恥ずかしげもなくこんなこと書いてしまったんだと思ったりする。

でも文章を書き続けるということはそういうことで、
その恥ずかしい気持ちは書き続けるうえで大切な過程だと捉えている。

面映いと感じながらも過去の文章を読むことは、未熟な自分と向き合うことだ。ああ、かつてはこんな未熟な考え方していたよな。稚拙でありきたりな表現だなぁ。面白みのない文章だ。と、たびたび思うけれどそんな感情が今の自分に釘を刺す。

文章を書いた当時、自分の未熟さに自覚していなかったように、今も自覚していないだけで、まだまだ未熟なのではないか、と。文章を読み返すことが、自身を俯瞰するきっかけになる。その俯瞰から自分がまだ未熟であることに気づくことができるのだ。

考え方はソクラテスの「無知の知」に似ているのかも。
今現在、自分の未熟さ(文の質や考え方について)を腹落ちできてはいないが、自分の未熟だった時はいつも自分の未熟さに気づいていない時だった、だから気をつけよう。みたいな。

だから、文章を読み返して恥ずかしいきもちになることはあるけど、それ自体むしろいいことだと自分は捉えている。

あとは単純に自分の物語を読み返すことは面白いよな。
綺麗な文章ばかりなんて、それはそれできもちわるい。青さを感じる過去の文章も、自分が成長した実感をできて面白いんだよなー。すこしタイムスリップしたような感覚になる。

これまで感じてきた恥ずかしさは、文章を書き続ける以上これからも続くであろう。それを自覚しながら、そんな恥ずかしさもものがたりの面白みだと捉えて書き続けれたら良い。自分という未来の読者に向けて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?