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新卒プロパーから社長就任、それからのこと その14

2000年に入った。
世の中が大きく変化していく時期。
インターネットという言葉が溢れ、あちこちに新たなビジネスが立ち上がっていた。

名大社も遅まきながらそんな時期を迎えていた。
僕はチームの低迷から社長や常務から叱責を受けることはしばしば。
有能だったTが自分でチームを持ち、高井もTの部下となった。

僕は女性ばかりの部下を抱えるチームのデスク。
成績がイマイチで叱責を受けるのは仕方ないとして、
体調不良で休んだ時もデスクとしての指導力のなさを指摘された。
身勝手だとか薄情だとか以前の社長の発言ではないが、そんなことも言われていた。

当時、人事の発表は時期になると内示は一切なく掲示板に張り出された。
誰もが4月1日の発表を戦々恐々としていた。
それも今とは大きく異なる点。

昇進も異動も何も打診はない。
「はい、今日、夕方、席移動!」
そんな感じだった。

僕は3月末の幹部研修会で未熟さを罵倒されながらも、
インターネット委員会の責任者に任命された。

その年の11月に新卒向け就職サイト「名大社DeSu」の公開が決定。
それに伴いシステム会社とのサイト構築や営業方針が決まっていった。
会社にはまだパソコンはほとんどなかった。
インターネットもこれをきっかけにようやく繋げられた。

今のように一人一台の時代ではない。
会社に数台しかなかった。
それでインターネットサービスを立ち上げようというから、今思えば恐ろしい。

当時、僕はネット関連、eビジネス関連の本を読み漁っていた。
世間的には平均レベルだが、社内では相当の知識の持ち主と思われていた。
というよりも思わせていた。

初めてクライアントとメールの送受信をした時は感動的で喜びを日記にも書いていた。
そんなレベルなので、システム会社との連携も社内への浸透も相当苦労した。
あちこちでぶつかったし、
委員会内であまりにも出来の悪い先輩を外すこともあった。

中途市場も徐々に回復し転職フェアの契約も伸びた。
時期によっては枠数に収まらずお断りもした。
同時に相変わらず朝日新聞、毎日新聞の企画紙面も売っていた。

ネット事業の責任者とはいえ、日中は営業が中心。
モーレツに忙しかった。
その年の前半はそれでも仕事を終えると飲みに出掛け、
酔っ払い電車を乗り過ごすことも多かった。
(今も変わりません・・・汗)
嫁さんにはかなりヒンシュクを買っていた。

後半はあまりの忙しさに飲みにも行けなかった。
1か月以上一度も行かない時期もあった。
(コロナでもないのに・・・)

会社の鍵を閉めて帰る日も多かった。
2000年秋に東海豪雨もあり、何かと激しい年。

11月にオープンを迎える「名大社DeSu」。
販売状況は今一つ。
これまで営業を支えてきたベテラン幹部も全く売れない。
年齢も役職も下の僕がクライアントに同行し提案することもあった。
自分自身の契約状況も芳しくなかったが、ここは責任者として意地を見せるしかなかった。

11月のオープンにはトップの契約数を持ってくることができた。
11月1日は午前3時まで会社に残り、オープンに立ち会った。
ちょっとしたトラブルはあったが無事に開設。
担当役員と社内で一杯だけビールで乾杯をした。

そんな立場なので、大学へのサイトPRも僕が担当。
この頃から大学での講演も少しずつ任されるようになった。
大変な年だったが、多くを学んだ一年でもあった。

相変わらず浮き沈みの激しい生活。
アメとムチを最大限に受けていた。

年末の社員総会ではいつも頂く賞は受賞したが、予期せぬ賞も頂いた。
特別功労賞という今までにない賞。
素直に嬉しかった。

ただこれは僕が一人でもらったのではなく、
共にインターネット委員会でハードにこなしてきた仲間がいたから。
特に奥井さん(先日雇用延長を終えた先輩)と制作チーフのY君の貢献度は大きかった。
年明けの3人でお祝いをした。
足が出た気もするが・・・。

年末の日記にはこんなことが綴られている。

入社して約12年、一番真摯に仕事に取り組んだ年だったかもしれない。
特に会社に対する責任、自己の果たすべき役割を真剣に考えた一年だった。

続く・・・。

ちょっと今回、長かったね。

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