脊髄反射で否定をするな

 最近はずっと雨だ。そのおかげか知らないが、日中もエアコンをつけずに何とか過ごしている。それほどまでに涼しい。だが今日は、お天道様が顔をしばらくのぞかせていたので、かなり激しく葛藤していた。その結果見事太陽に打ち勝ち、エアコン連続停止記録を更新している。

 私が今いるところが豪雨と表現するまでの雨になっていないので、こう感じるけれども、実際、豪雨によって災害級の被害を被っている場所は少なくない。自分は本当にたまたま恵まれている場所にいるだけであって、そうでない人々の存在というものは忘れてはならない。

 人は常に周りに影響されている。生活スタイルもそうだし、考えかたも例外でない。人には必ずさまざまに異なるバックグラウンドを持っているものであるので、相手が持っている常識と自分の持っている常識が一致していないことがふつうであることがわかっていないと、たくさんの軋轢を生むことになる。

 それだけではない。たとえ同じ状況、環境にいたとしても、その状況が良いと感じるか、悪いと感じるか、それすらも差異がある。同じ空間にいてすら、快適な温度設定なのか、それとも、少し寒い、暑いと感じるかは人それぞれが持つ基準があるということを覚えておく必要がある。

 これこそが多様性の理解なのではないか?

 とまぁ、ここまで当たり障りのないことばかりを淡々と述べてきた。どうだろうか?ここまでの話、多少の人に対する気遣いだったり、人に対する尊敬だったりができる人であれば、なんら問題なくできると、"私の常識"では考える。(同意しない人もいるかもしれない) これは誰かに具体的にきちんとテキストを用いて教育されたような事柄ではない(と思うのは、記憶から抜け落ちているからかもしれないが)。なんとなく間違った対応をして、そのたびに周囲から注意を受ける。ああ、これはいけなかったんだな。駄目だったんだな。そういう後悔や、反省をして初めて行動の顛末を理解でき、今後はこういったことをしないようにしようと、心の中にとどまるのである。

 そういったことを繰り返していって、人にしてはいけないこと、というものを自ら学んでいく。マナーやモラルはそのようにして形成されると思う。

 昨今騒がれている、多様性の理解は果たしてこの延長に存在しているのだろうか?答えはyesであり、noである(これこそが多様性である)。正しいとか、正しくないとかという言う尺度で語るものではない。国際的な理解とか、ジェンダー問題、宗教etc.は歴史的、政治的にかなり入り込みすぎていて、付け焼刃の知識で太刀打ちできるものではない。一回二回の経験で語れるものでもない。

 どうにかしよう、何とかしようと考える前に、とりあえず気を遣おう。こうすれば今までの延長での振る舞いでいいし、その人の経験が生きてくる。そんな気がする。

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