切り抜いたもん勝ち

 一連の騒動に関係する話を連投していると感じている方々申し訳ない。事実、あの一件がメディアで大きく取り上げられるようになったそのあたりから、noteを再開したものなので、こういった内容が多くなってしまっているのかもしれない。

 しかしここ最近の投稿は何もその一件に触発されて書いているわけではない。

 今回のテーマ、「切り抜き」については、少し前から友人、知人と簡単な議論を交わしている。

 この議論をすると決まって、知り合いの人々は、切り抜き賛成派なのである。(賛成や反対といったことで議論をしていたのか!と驚いた方がいたら失礼であった。)

 情報が錯綜する世の中で、本当に必要な情報や、要約された情報、無駄のそぎ落とされた情報を、簡単に、手短に入手することのできるツールとして、切り抜きは近頃、とある大型動画共有プラットフォームで人気を集めている。というか、妙にレコメンドに蔓延しているような気がしてならない。

 どの程度の人が切り抜きを見ているのか知らないが、きっと例の動画サイトを利用しているユーザー数から言って、大方の人は切り抜き動画にも触れているものと思われる。

 そろそろ、私の所感を述べよう。私は、切り抜き反対派である。がある状況での切り抜きだけは許容できる。

 まずは許容のできる、切り抜きについて。それは、自らの手で自らの情報提示を切り抜きという形で行うことである。このような形で表れた情報というものは一貫して、その本人のみのものであるからである。生放送でもなんでも、大枠として自分の存在を提示したのちに、冗長であると感じる部分や、見せたくない部分、本当に見せたい部分の取捨選択を自分で行って、あくまで、自分というものをどう見せようかということに注力しているので、これは何が起きたとしても、自己責任ということで納めることができるからである。

 では、なぜ標準的な切り抜きというものを反対しているか。基本的に切り抜きという形態は、第三者的存在が、第三者の意思によって、行われているということがまず一つ上げられる。これによってどういった問題が起きるかというと、本人の意思とは全く関係のない、むしろ、本人が伝えようとすることとは180度反対の思想というものを相手に伝えかねない。

 切り抜きによって、興味を持った人たちが現れて、本人の元の動画に興味を示すかもしれない、という意見もあるかもしれないが、これは複数のリスクをはらんでいると考える。

 まず、切り抜きから興味を持った場合、その本人そのものとギャップがあった場合、本人に対して興味を持つというよりむしろ、切り抜いた人に対象は向いている。これでは元動画に出演している本人が全く報われないではないか。これによってクリエイター精神がそがれてしまえば、本当の作品というものがどんどんなくなっていってしまうような気がする。

 そして、次に、切り抜きから元動画に戻った場合、結局切り抜きの利点と考えられていたもののひとつである、簡潔に情報を得られる、という点がないがしろにされている気がする。切り抜きから元動画に興味を持ってもらえたならそれは、視聴者獲得に貢献したのだからいいことなのではないか? というツッコミが聞こえたが、それは善良な切り抜き家?を仮定した場合の話である。切り抜きをする人が切り抜かれる人のメリットを考えて行っているとは到底考え難い。

 そして、最後に一番言いたいことを書いて終わろうと思う。それは、そういった簡単に手に入るような形に変容させた本質が存在しない、情報が蔓延することで、結局この情報化社会の複雑性を増長しているという風にしか私には見えなかった。簡潔に視聴できるということでいくつかの選別の余地を与えないように存在しているのが切り抜き動画というものだと思う。

 もちろん、他人の趣味嗜好にいちゃもんをつけるつもりはないが、また戦略として切り抜き動画を作るということは、なんら法を犯したり、モラル的悪(になる場合もあるが)を直接的に行っているわけではないが、この文章を読んでいる読者だけでも、そういった誘惑を疑えるようになってもらいたいものだ。

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