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実は織田信長は古くからの秩序・礼節を重んじる生真面目な人間だった。 #信長
「天下布武」のハンコは、武力による全国統一ではなく、幕府を支える決意を示したものだというのです。
そして、信長のスローガンだった「天下静謐(せいしつ)」とは、
室町幕府の将軍が、京都周辺を昔のように穏やかに治めることを意味していたのです。
それらに忠実に取り組んだ結果、信長は『天下』に近づいていったのではないでしょうか。
歴史学者の先生方による「先入観を抱かずに歴史上の人物を捉え直す」地道な作業によって、
・「中世の秩序を守り抜こうとした」
・「将軍義昭の意向を非常に重んじた」という
・ひたすらマジメで堅実な実務家の信長の姿が浮かび上がってきました。
信長は、足利幕府を非常に尊重する、保守的で堅実な実務家だったということです。
根拠としてあげられるのは、
・京都上洛(足利義昭を15代将軍につける)は足利義昭から要請を受けたから上洛したのです。
・信長の居城であった小牧山城・岐阜城は、将軍を迎える準備(近世風の石垣で作られました)だったのです。
足利時代で言う『天下』の定義は、畿内に限定されて天下といっていたので『天下布武』の言葉使用したのです。
足利時代の歴史的背景
・足利幕府の8代以後の将軍は、常にパトロンの戦国大名を探し戦国大名へ上洛を依頼していたのです。
・将軍足利義昭は、上洛の依頼をあっちこっちの戦国大名にしましたが引き受けたのは織田信長だけでした。
・その後足利義昭と不仲になり、義昭を京都より追い出し、足利将軍の役職を無かったものにしました。
織田信長が天下を統一できた要因をあげるとすれば
・『官職』『官位』を欲しがらず、武力で世の安定をはかったこと。
・『兵農分離』策により、安定した武力が保持できたこと。
(兵農分離:商業が発展して金銭に余裕の生まれた戦国大名の一部には、長期的に兵力を保持する必要から、足軽を継続して雇用したり、家臣団に組み入れる勢力も現れました。
加えて村落に居住する侍衆を直接的な農業経営から分離して城下に集めて専任の職業軍人とすれば、召集に必要な時間を短縮できて農繁期出兵の問題も解決できました。
さらに兵の錬度、武具の質も上げることができました。)
戦国時代から現代に至るまで、時代によってイメージが揺れ動いた信長。
歴史上の人物に託す思いは、時代を映す鏡なのかもしれません。
織田信長のイメージといえば
旧態依然とした室町幕府を倒し、新たな時代を切り開いた戦国の革命児といったところではないでしょうか。
しかし実は織田信長は
『朝廷や幕府の権威』を守ろうとする、まじめで保守的な人物なのです。
最後の室町将軍・足利義昭の政権維持のために懸命に奔走していました。
将軍の天下のために戦えば戦うほど、同盟者に裏切られ苦境に陥る信長でした。
最新研究では、
・天下布武の意味や
・足利義昭との関係や
・比叡山焼き討ちなど一般に言われているものがいかに虚像であることがわかります。
何で信長が延暦寺と敵対したのか
当時の延暦寺はいわば僧兵集団。
お寺というイメージとは正反対に、
・権力を振りかざして本来入れてはいけないはずの女性を連れ込んだり、
・金貸しに手を染めて荒稼ぎしたりとやりたい放題になっていました。
・さらに殺生厳禁のはずの仏教徒だというのに、浅井家や朝倉家に協力する始末。
軍事拠点化しており、京都の脅威ともなれば、叩き潰すしかなかったのでしょう。
往生際の悪いことに、信長がやってきてから
比叡山側は「お金あげるのでどうか勘弁してください」という使者を出してくるのですが
信長はこれを受け取らず追い返しました。
その時点で逃げ出した人も多かったのです。
逆に言えば、これでも比叡山に残った人たちは徹底抗戦するつもりだったということにもなります。
燃えた木材も人骨も出土していない?
逆らう僧兵達だけでなく、オンナ子供も殺しに殺して、果ては比叡山に火を放ち……というのが従来の延暦寺焼き討ち事件説です。
が、最近の発掘調査で意外なことがわかりました。
焼き討ちをしていたとしたら当然出てくるはずの燃えた木材などがごくわずかにしか見つからないのです。
加えて、何千人も殺していたとしたらこれまた出てくるはずの人骨も全く出土しなかったといいます。
もし本当に「全山焼き討ち」及び「数千人を殺害」していたら、
ブルドーザーも埋め立て技術もない時代にどうやってそれらを片付けたのでしょう?
この結果からすると、信長は延暦寺を攻めて僧兵と戦っただけで、
ちまたで言われているような全山焼き討ちはしていないのでは……?とも考えられるのです。
延暦寺焼き討ちの悲惨さを記録した資料を書いた人は、ほぼ全員その場にいない人なのです。
「言継卿記」を書いた公家の山科言継(やましなときつぐ)も、
「御湯殿上日記」を代々書いてきた朝廷の女官達も、皆伝聞を書いたにすぎません。
伝言ゲームで話が誇張・脱線するのは今も昔も変わらないんですね。
一応信頼度が高いといわれている「信長公記」にも書かれていますが、
作者の大田牛一は「文才がありすぎて誇張が激しいのでは?」という傾向があります。
朝廷と深い繋がりがあった延暦寺を焼き討ちしていたら朝敵にされていた
それは、延暦寺は朝廷ととても深い繋がりがあったということ。
信長が焼き討ちを行ったとされる頃、延暦寺のトップは天皇の弟さんでした。
いくら信長が「神をも恐れぬ」とはいえ、
そんな人のいるところを丸焼きにしていたら、当然朝廷からお咎めがあるはずです。
朝敵にされていてもおかしくありません。
信長は既に周辺の大名達から包囲されていたので、
朝廷がその大名たちに「信長は朝敵だから協力して討つように!」とさえ命令すればすぐ討てたでしょう。
なのに、そうしていないということはやはり全山焼き討ちがあったかどうかが疑わしくなってくるのです。
派手で破壊的な革命児という従来のイメージとは違い、
古くからの秩序・礼節を重んじる生真面目な人間であり、
自らが擁立した室町幕府の将軍義昭と助け合って
・天下布武(武力による幕府領の平定)
・天下静謐(平定した領地の平和維持)につくした人でした。
しかし気の強さと生真面目すぎるところなどから
・義昭を始め諸大名から疎まれ
・あらゆる方向から戦いをしかけられる日々でした。
この辺りの情報については、下記記事も参照ください。
世界を見て欲しい。 すべてが逆行しており、
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