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順風満帆の会社員が適応障害でどん底に落ち、復活を遂げて心理カウンセラーになるまで道のり

こんにちは!山田孝博です。

現在は41歳でオンラインで心理カウンセラーとして
年間500人以上の方にメンタルトレーングをしたり、
100人以上のカウンセリング、
カウンセラーの育成をしています。
また、仕事以外にも出身小学校のPTA会長をしたり
父と農作業もしています。


経営者マーケティングセミナーにて


母の法事、いちご狩り

紆余曲折あった私の経験から、今に至るまでのストーリーを各エピソードとを交えてお伝えしていきます。

一生忘れない両親の顔をみた日

私は兵庫県姫路市に住んでいて、妻と子供4人の6人家族です。
1981年6月24日、父はサラリーマン、母は専業主婦のごく普通の家庭の4人兄弟の長男として生まれました。

私が2歳、妹が生まれた時

私が小学校2年生のクリスマスから2ヵ月くらい経った2月の終わり頃のことでした。2階の寝室で自力では起き上がれない母の姿がありました。2月に入ったころ、歯茎から血が出ると歯医者に行ってからずっと寝たきり状態が続いていました。
伯母が病院の看護師をしているので症状をみてもらうと、

『孝昭さん、これはすぐ入院や』

と父に言い、翌日、救急車で伯母の勤める病院へ運ばれていきました。
『たかちゃんごめんなぁ、お別れ遠足のお弁当お母さん作れへんようになったわ』
これが 私にかけてくれた母の最期の言葉でした。
それから1ヵ月もたたない、 3月16日、母は父と私達子供4人を残して旅立ちました。
後に父から聞いた話では病院から母は急性骨髄性白血病で残り2週間の命と言われたそうです。
母がなくなる直前に父に残した言葉は

『私はもうあかん、子供らのことを頼んだで』

それを聞いた父の気持ちは計り知れません。
母の葬儀で一番記憶に残っているのは、父の友人が父に声をかけた瞬間で、抑えていた感情が一気に溢れ、ひと目をはばからず、顔を真赤にして涙を流した時でした。
 私が一生忘れることのない、父の顔と母の顔をみた1日でした。
私たち4人兄弟が元気よく育ち、今も仲良くしていられるのは、父の決意の現れであることはいうまでもありません。

子供時代の悔しい思い出

当時小学校2年生でクラスで1番背が高く、体格も一番大きいボス的存在のFくんがいました。
ある朝、うちの近くに転校してきた仲良しのT君と運動場で遊ぼうと誘ったらFくんが
『T君は俺らと一緒に遊んどるからお前はくるな』
とお尻を足でボンと蹴られ、運動場の隅に追いやられ、一人ぼっちになり、私は半べそをかいた時がありました。
そのFくんとは、小学2年以降は話をすることはありませんでしたが、中学校2年になった時、また同じクラスになりました。
そして運悪く同じ班になった時にその出来事は起こりました。
私の英語テストの答案用紙を取り上げて、間違い探しをはじめました。
そして先生が間違ってマルをしているところを見つけ出し、それを先生に報告するように言ってきました。そして、私は2点減点となりました。
それでも何も言い返せない自分がいました。Fくんは母が亡くなっているのを知っておきながら
『 家で誰かに相談したらいいやん』
と言われても、何も言い返すことができませんでした。
そのかわり放課後に学校に保管してるFくんのリコーダーを黙ってとって帰り道の川に『クソッ』といって投げ捨てることでうさばらしをするしかない自分がいて、ここでも私は半べそをかいていました。

父の影響を受けて

私の父は2歳の時に父親(私の祖父)を病気で亡くし、生活はとても貧しく、朝2時に起きて牛乳配達をしたり、祖母の内職など手伝いながら、運良く地元最大手の会社に就職できたそうです。

そんな苦労話を聞く中で、自分の将来は安定した大手の会社で働きたいと思うようになり、待遇が手厚い製薬会社へ就職することを決めました。
そして、安定した収入で定年までは仕事をして老後を過ごすという誰でも予想できそうな未来がある生活の中にいました。
しかし・・・
 

大きな決断をした結果・・・

順調に会社勤務をしていて14年経ったころ、 会社の人事や自分の評価に納得することができないことがありました。
自分ならもっと良い評価をしてくれるだろうとという期待感もあり、将来的な昇格の約束もされていたことから、大手2社が出資する医療用ロボットのベンチャー企業に転職することに決めました。

しかし入社早々、自分の勝手な判断で他部署に連絡したことを皮切りに、

『なんで俺の報告なしに相手に送ったんや?』
と上司から信頼を失い、書類一つ出すにも

『全く意味がわからん、やり直せ』と言われ、
更にどんどんコミュニケーションが取れなくなり、相談するのも嫌になってきて、どうしていいかわからなくなり、メールの文章を上司にチェックされるという事態になって

『メール1つ送るのに半日もかかるとはありえへん…』
すべてが混乱して、悪循環で、どうしていいのか自分でもわからなくなってしまいました。
そして、上司がすぐそばにいる空気感が絶えられず、トイレに入ったり、外をウロウロしたりしました。
病院に行くと、適応障害と診断され、しばらくは仕事に行っていましたが、休職することになりました。

そんな中、転職をした後悔と将来の不安で、 体のいたるところに原因不明の蕁麻疹が出るようになりました。

休職中の私

私を救ってくれたのは誰だったのか?

そんな、目の前が真っ暗になっていたときに、 光が指す出来事が起こりました。今もの心理学の師匠であるカウンセラーとの出会い。 
そのカウンセラーの 1回目のセッションで大きな自分の気づきを得ました。
それは・・・

今までの過去の振り返り、 保育園の頃、小学校、中学校、母との記憶、祖母との記憶、父との関係、兄弟との関係…

いろいろ自分の生きてきた記憶をたどってていく中で、ずっと今まで必死に頑張ってきた自分の姿がありました。
そして、何のために働いているのか?家族のため?会社のため?

自分?自分がいない?

誰かに救って欲しい自分がいることに気づいたのはその時でした

『山田さんは誰を救ってあげたかったと思いますか?』

誰? 父? 母? 祖母? 兄弟? 会社を辞めた後輩?

そう、”救ってあげたい自分”を忘れていたんだ!

胸の奥の氷が解ける感覚と同時に涙が溢れてきました。
救ってあげたい自分に今の自分が優しく声をかけてあげて
救ってあげたい自分が嬉しくて喜んだ瞬間でした。
救ってあげたい自分とは生まれてから今まで

”ずーっと生きてきた自分”

母を亡くして父の涙を見て、生きていく決意をした自分、
F君にいじめられてはんべそをかいていた小学2年生、中学2年生の自分、
父の背中をみて、必死に期待に応えようと頑張ってきた自分、
仕事で新しいチャレンジをしたにも関わらず、つまずいて1人でもがいていた自分

今までずーっと頑張ってきた過去の自分達、

救われた自分達と今の自分が統合して新たな山田孝博が誕生した瞬間でした。

心理学を学ぶ仲間たちと

なぜ、私がこの仕事をするのか・・・

私はあなたに伝えたい。
このカウンセリングがなければ、この救ってあげたい自分に気づくことが一生なかったかもしれない。
気づけたのは気づかせてくれる存在がいたから。
私はそんな存在になりたい。
それは助けてほしいあなたがあなたの中にいることを知っているから。
私が味わった感動をあなたに伝えたいから。
あなたが助けてほしいあなたに気づいて、優しくこえをかけてあげることができれば、あなたはもっと自分のことを大切にすることができるから。

私はこの仕事に誇りをもっている
それは私自身が
”ありがとうと言われることが嬉しいから”
”悩んでいる人の喜ぶ顔が見たいから”
”これが私の仕事だと堂々と言える自分が好きだから”
 
今では
『タカヒロさんがいてくれたから』と言っていただけるようになりました。
あなたはもうすぐ気づくかもしれません。
救ってあげたい自分が自分の中にいることを。
気づくことができれば、救うことができます。
救ってあげたい自分を救えるのは自分だけだから・・・

私の妻と子どもたち、私と父
野球解説者の八木さんと対談、カウンセリングをもっと身近にするために…


心理系インスタ=「山田孝博」と言われるように


私はカウンセリングを通して、価値の提供を続けていくべくこれからも発信していきます。

最後までご覧くださり、ありがとうございました。

私との出会いが、あなたの人生を変えるきっかけとなりますように…

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