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忍術漫遊 戸澤雪姫 その16 『身投げ』

ところで雪姫は何日迄(いつまで)も小光を一緒に連れて歩く事は出来ないから、乳母のお道と相談をして、摂州花隈城へ送る事となり小光にも言って聞かせ、路金として二十両を与え、翌日直ちに出立させた。後に此の小光は雪姫に使え、雪姫が縁付く時に乳母のお道と一緒に付添い、生涯雪姫に忠義を尽し、その恩に報いたと言う事で有る。さて小光を本国へ出立させて仕舞った雪姫主従は肩の重荷を卸(おろ)した心地して、気楽に名嶋の城下を見物する。松原で仇討ち助勢をした女だと言う事が知れ渡っているから楠屋の店先には毎日の様に勇婦雪姫を見んものと、人が群集すると言う有様、雪姫はそれが五月蠅くて仕方がないから、

雪「乳母やもう出立をしようではないか。あんなに毎日人が押しよせて来ては、第一宿屋へ気の毒じゃ……」

これを傍で聞いていた亭主、

亭「イエどういたしまして……何卒一年二年五年十年なんなら一生涯でもおいでを願います。手前の方は旅籠料を申し受けませんで……」

雪「何、亭主なぜ然んな事を言います。宿屋で旅籠料を取らずに立ちますかい」

亭「イエ夫れがお嬢様、手前の宅は貴女が松原で仇討ちをして下さって以来、此の通り間の明かした所もない様に、ギッシリ詰って居りましょう。これというのは、貴女は御存じございますまいが、皆近郷近在から、また遠いは十里二十里先きから泊り掛りで、勇婦の顔が見たい、貴女のお顔が拝みたいというので、あんなにお客が一杯込んで居るのでございます。私の考えではお客の外に毎日あの様に沢山の人が表へ寄って来ますから、一つ木戸でも取って一人前十文として貴女を拝ませたら、大分儲かると夜前から試案をして、一つ此の事を御願い申したいと存じまして……」

雪姫はこれを聞いて呆れて仕舞った。こんな事ではイヨイヨ長居は恐れと、早々其の翌日、亭主の引き止める袖を振り切って、当所を出立、だんだんと筑後より肥後に入り込み、肥前へ出て長崎の町へ入り込んで来た。この長崎は西の果と言われ、異国舟が早くから入り込んで居るから、風俗も多少変った所が有る。当所肥前佐賀の城主龍造寺家より、長崎奉行と言うものを置いて、取り締まって居るという有様、雪姫は物珍しく、

雪「乳母や、変った宜い所だな」

道「どうも色々珍しい事を聞いたり見たりいたします。異国の舟が沢山這入って居りますが、多くは阿蘭陀と言う所の人だと申します」

雪「阿蘭陀といえば、忍術のソモソモの最初はオランダから渡ったという事で有りまするが、南蛮人というのは阿蘭陀人の事で有ろう。魔法使いが沢山阿蘭陀人には有るそうだが、一つ魔法使いにでも逢いたいものじゃが……」

と毎日毎日雪姫は市中を歩き廻って居るが、一向然んなものに出会わない。或る一日、雪姫主従は長崎では有名な丸山の廓へ来た。なんしろ有名な廓の事、夫れに此頃(このころ)は異国人が入り込んで居るので、また変った趣がある。雪姫主従は、彼方此方と見物をいたし夜に入ってから、自分の宿の方へ帰って来た。丁度宿の一丁ばかり南にある大川に掛って居る橋の所まで帰って来ると、一人の女が橋の中央(まんなか)ごろにションボリ立って何かクドクド口の中でいって居る。雪姫には其の姿がはっきり見えて居る。

雪「オヤ乳母や、チョイとお待ちよ、あの女はどうやら身投げらしいよ……」

と其の方を刺したが、お道には暗いから其の女の姿は見えない。

道「ヘエ……お嬢様、妾には一向なにも見えません」

雪「オオお前には分かるまい。向うに女が居るよ。大方身投げをするので有ろう。良夫が遊女に溺れて幾ら諫めても聞かないから身投げをすると言って居るよ」

道「オヤオヤお嬢様はよく耳が……」

雪「妾は三丁四方なら、針の落ちる音でもハッキリ聞えるのだよ」

道「成程然うでございましたか。夫れでは早く助けておやり遊ばせ」

と、いってる折しも、女は咄嗟(あわ)や闌干を飛び越え、川中へ真逆様に、飛び込まんとした。其の間一髪、雪姫は早くもパッと飛び込んで来て帯際確(しか)と背後(うしろ)より掴んで引き戻し、

雪「マア御待ちなさい。死ぬるとは能く能くの事で有ろうが、無分別に死んで花実は咲きませぬぞえ……」

女「あれどうぞ死なせて下さいまし。これにはだんだん様子の有る事、死んで良夫を諫(いさ)めるより外には……」

雪「夫れほどの貞女なおさら殺す事は出来ぬ……」

とグイと引き戻して、

雪「コレ乳母や、お前この女を抱えておいで……兎に角此処では話も出来ぬ。宿へ連れておいで……」

道「畏まりました。コレ女中、短気は損気という事がございましょう……この嬢様のお目に掛かったら、悪い様にはいたされぬほどに、マアマア短気をおだしではない。其の私と一緒においでなさい。何も心配する事は有りません」

と、左右より止められ女は死ぬにも死なれずソッとその場へ泣き伏した。雪姫とお道とは夫れを色々と慰めなだめ、両方より手を取って自分達の宿へ連れて返り、其の夜はなんにも尋ねず、大分気が立って居る様子だから、静かに一室に寝かせ、雪姫とお道は次の間で夕食を食す。給仕に出て居る女中はなかなか愛嬌の有る宜い女中だ。雪姫も暫く滞在をいたして居るから大分心安らかになって居る。

雪「この長崎に、少しは剣術の使える人が有りますかえ。お前さん御存じは有りませんか」

と話しかけた。雪姫は五万石の姫君だが、此の頃はスッカリ旅馴れ、なかなか口を利くにも権式(けんしき)振らない。

女「ハイお嬢様は、宜い先生がいます」

雪「なんという先生で……」

女「エエ下村弥五郎様と仰有いますが、素は龍造寺家の御家来でございましたそうで、今は此の長崎で町道場を開いて弟子も二三百も有りますそうで……宜い先生でございます」

雪「ホホホ無闇にお誉めだよ」

女「ハイ全く豪い先生で……」

雪「ハハア夫れでは少しは剣術の真似事でもするのぢゃな」

女「真似事どころではございません。名人だそうで、諸国から浪人者が参りましても、道場に遊ばせて置いて、御飯を喫べさせて、お小使いを上げて、其の上剣術の稽古をして上げますそうで、年中三十人位い食客が有りましたが、今では其の浪人者も居りませんそうで、お弟子も大分減りましたとやら」

雪「ホホホ、可笑しいではないかえ。其の位豪い先生でお弟子が減るというのは……」

女「イエこれには曰くがございます。其の先生が丸山廓の大吉楼(だいきちろう)の寿(ことぶき)というのに引っ掛って始終家を外にして居りませんので……夫れでお弟子も嫌気になって余程減りましたそうで……」

雪「ハハア、大吉楼の寿とはなんでございます」

女「女郎で……宜い女でございます」

雪「女郎に剣術を教えに行くので……」

女「イエそうではございませんので……女郎に熱くなって通っておいでなさるので……」

道「オヤオヤ、夫れでは豪い先生所か、馬鹿な先生じゃ。お嬢様、妾が乗り込んで引っ叩いて遣りましょうか」

女「オヤオヤ、貴女はマア然んな事が出来ますか」

道「イエ出来ますよ。宜い年をして女郎風情に迷って女房や子供に心配を掛ける。夫で豪い剣術の師範なぞと、了簡が違って居る。然ういう人はチト引っ叩きでもしないと、目が覚めぬものだ。お内儀さんは有るで有ろう」

女「ございます」

雪「子供はないのかえ」

女「お子さんはございませぬそうで……」

雪「剣術は何流だえ」

女「夫れは一向に存じませんが、一刀流とか申すものでございましょう」

雪「ナニ一刀流……」

女「ハイ、只一本の木太刀で稽古をなすって入らっしゃいますから……」

雪「オホホホホ、お前も物を知らぬ。何流も大抵得物は一本だよ、オホホホ」

笑って居る所へ、奥の間へ寝かせて居った女が唐紙を開けて、不意にスッと出て斬た。すると今迄ベロベロ口喋(しゃべ)って居った女中は妙な顔をして、俯向(うつむ)いてモジモジして居る。

道「オオお前様、気が落着きましたかえ」

女「ハイ、誠に有難う存じます。実は妾は只今此の女中が申して居りました、下村弥五郎様の妻でございます」

雪「エッ夫では剣術の先生の……」

女「ハイ女中の申した通り良夫が宅を外にして廓通い、夫れ故、御弟子は減りますし、私も見兼ねて悋気(りんき)ではございませんが、三四度意見をいたしましたが、馬の耳に風邪で少しも改めて呉れません。のみならずこの頃では妾を出て行けがしに打ち打擲(ちょうちゃく)、妾も残念で堪りません故、ツイ身を投げて死のうかと思いましたのでございます」

雪「夫れはまたお気の毒、まあどうして然んな事になりましたのでございましょう」

女「夫れに就きましてお話がございますので、誠に御恥ずかしい事ながら斯様でございます」

女房は一伍一什(いちごいちじゅう)の話をした。

ちょっとした解説:雪姫で商売をしようという宿屋の亭主、女中と雪姫の軽妙な会話、剣術の先生を殴りに行こうとするお道など、この章はギャグパートとなっている。忍術は阿蘭陀からやって来たというのは明治35年あたりに発生した概念だ。かなり混み入った話になるの結論だけを書くと、忍術とは催眠術であり、催眠術は海外の技術、大昔に日本に来ていた西洋人は阿蘭陀人……というわけで、忍術は阿蘭陀からやってきたということになっている。現代では文化物の起原を主張し誇ることが多い。しかしかっての日本では、西洋からやって来たものは上等であり、優れているという考え方があった。そのため起原を西洋諸国に譲ってしまうといった、なんとも珍妙な現象が発生していた。


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