忍術漫遊 戸澤雪姫 その03 『廓通い』
ところが此処には喧しく云う者が誰もいないから、二人は結局良いことにして、
雪「乳母やお出で」
道「よろしゅうございます。サアお姫様いらっしゃいまし」
と、年増と新造が別荘で毎日エイッ、バカリ、ズシーン、ヤッ、ドシーンとやっている。稽古が済むと庭に出て、草木を眺めて楽しんでいる。五万石から仕送りが来るから、食べることに困るという事もない。
雪「乳母や」
道「ハイ」
雪「こうして庭を眺めていると、よい心持ちだよ」
道「本当にお姫様、朝早く稽古なすって、お庭に出て、お休みなさるのは、お身体に結構でございます」
と話しながら、彼方此方と歩いていると、表の方で、
○「ヤア見や。ここはお殿様の御一門戸澤玄蕃様の御別荘だぜ。豪気なものだ。この庭の綺麗な事、素敵な桜があるじゃねぇか」
△「ウム、これは良い桜だ。柳原の桜とどちらが良いだろう」
○「なにを云うんだ。柳原の桜は金さえ持って行けばこちとらだって自由になるんだ。この別荘の桜と来ちゃァ、お庭の桜でも手が付けられねぇや」
△「アー良い桜だな。物云う桜は綺麗だなァ」
と頻りに誉めているのを雪姫が小耳に挟んで、
雪「乳母や、この別荘に桜はないのに、柳原の桜とどちらが良いとか言っているが、あれはなんの事だえ」
道「あれはお姫様、なんでございます、柳原の廓におりまする女郎衆と、お姫様とどちらが綺麗だろうか、お姫様の方が美しいと誉めておるのでございます」
雪「マアそうかえ。そう言えば乳母や、柳原の太夫の道中と云うものを見た事があるかえ」
道「イエ絵草紙では見たことはございますが、本物はまだ一度も見た事がございません」
雪「私もそうだよ。今夜行って見ないかえ」
道「左様なことを仰せられてはいけません。お姫様がお腕立てをなすったので、お殿様からご勘当同様になって、この御別荘へ押し込められていらっしゃるではございませぬか。柳原の廓なぞへお越しになるものではございません。万一御城内へ知れましては、どんなお叱りを受けるかも分りません」
雪「いいよ。知れない様にして行けば良いよ。この姿では知れるから、兄上のお召し物がある故、あれを着て私は男姿になって行こう。男姿なれば知れる気遣いはないよ」
と、雪姫はどうしても行くと言って聞かない。そこで乳母のお道も詮方なく、雪姫の頭の髪を洗って、それを結髪にいたし、男姿で手拭いを被せ、意気な姿でお道が付き添い、夜に入ると柳原の廓へやって来た。廓は夜のものだ。
『日の入りは大門口の日の出かな』
その賑いはまた格別だ。雪姫のお道は大門から廓に入り込み、太夫の道中を見物していると、俄かに群集の中で、喧嘩だ、喧嘩だと云う騒ぎ、
△「サア野郎、勘弁出来ねぇ」
□「ナニふざけた事をぬかしやァがるな」
と、大立廻(おおたちまわ)りが始まった。乳母のお道は、
道「お姫様、喧嘩だそうにございまする。危のうございますから、あちらへ参りましょう」
雪「乳母よ、お待ちよ……」
男勝りの気性の上に、柔術が出来ているから、バラバラバラッと人を押し分けて、喧嘩の中へ入り込み、
雪「マアお待ち、どういう訳が知らないが、こんな所で喧嘩なぞするものではない。お止しというのに止さないのかえ……」
と打ち合っている二人の手首を掴んで、左右へグイと捻じ上げる。
○「アー痛い。誰がなんと言っても勘弁は出来ねぇや」
△「ふざけたことをぬかしやァがる。アイタ……勘弁出来ねえ……ヤアいけねぇ、雪姫様だ、雪姫様だ。天満宮で中間三人放り出されたお姫様だ。兄弟止せ止せ、御領主様のお姫様だ」
○「ナニッお姫様……男じゃねぇか……アッお姫様だ、お姫様だ、こいつはいけねぇ。どうもお姫様すみません。喧嘩は止しますから、どうか手をお緩め下さいまし。アイタタ……」
雪「喧嘩を止すなら手を離すが、その方らは私を知っているのかえ……」
男姿でいて女の言葉と云う怪しいのだから堪らない。
男「ヘイ知っているところじゃァございません。お姿を変えていらっしゃっても、花隈の天満宮でお腕前を拝見して、当時は兵庫の玄蕃様のご別荘にお出でになります事も知っております」
雪「知っているなら隠しはしないが、いかにも戸澤の雪姫だよ。聞けばお前たちは兄弟だと云いながら、なぜまた喧嘩するんだね」
男「ヘヘヘヘヘ、なに兄弟分なんでございまして、別に深い理由もなにもございませんが、この四辻で出合い頭に突当り、この野郎気を付けろと互いに酔っ払っておるものですから、手を振り上げて顔を見ると兄弟分なんです。アアとんだことをした。止そうかと思うと、野次馬が喧嘩だ喧嘩だと言って騒ぎますので、振り上げた手を引っ込める訳にもいかず、仕方がねぇから景気を付けて喧嘩をやっちまった訳で……」
雪「マア詰らない。喧嘩に景気なんぞを付けるには及ばないよ。サア二人ともあの向うの料理屋においで。仲直りをさせるから」
雪姫は気性が気性だからよく活世間(せけん)のことを知っている。
○「ヘエありがとう存じますが……オイ兄弟、どうだい手前持っているか」
△「フム四百ある」
○「四百ばかりじゃ仕様がねぇ。エーお姫様、料理屋へ参りませんでも、なにも腹から喧嘩した訳ではございません。この通りアハハハと笑ってしまったんで……」
雪「それはなんだえ、今指で妙な丸いものを拵えて……お金なら心配おしでない。乳母が持っているよ」
○「ヘーそれならばお共します」
これから料理屋へ連れて行って、馳走をしてやった上に金を一両づつやって、
雪「サア、この後は喧嘩なんぞをするんではないよ。お帰り……」
○「どうも有難うございます。とんだご心配をかけて相済みません」
両人は喜んで表へ飛び出し、
○「俺は今迄喧嘩をして儲けたのは今度が初めてだ」
△「アアありがたい。これで明日の小遣いが出来た」
と大喜び、こちらは雪姫、五万石のお姫様でも朱に交われば赤くなる。下々の間に混って遊ぶから、自然にその言葉を覚え込み、窮屈な城内にいて左様然らばと鹿爪らしいことを言われるより、この方が余程面白いから、毎晩乳母のお道を説いて、柳原の廓に出掛けて来る。こう云う雑踏の場所だから毎度間違いがある。すると雪姫は飛び込んで、双方を引き分け、金に不自由をしないから、一両づつやって仲直りをさせる。この事が廓全体に知れ渡ると、若い奴らは雪姫の姿が見えると、
○「オオ吉公、どうだ腹は……」
吉「エエ」
○「どうだ腹はと云う事よ」
吉「腹は空いているな」
○「ぢゃァ喧嘩をしねぇか」
吉「腹が空いているのに喧嘩なんかして堪るものかい」
○「馬鹿ッ、本当の喧嘩をするんじゃァねぇよ。馴れ合いよ」
吉「してどうするんだ」
○「今に雪姫様が来たら、手前と俺とで喧嘩を始めるんだ。そうするとお姫様が仲に入って金を一両づつくれる」
吉「そいつァありがたい。そんなら手前の喉笛に噛み付こうか」
○「馬鹿を云え。喉笛に噛み付かれて堪るもんじゃァねえ……オオ来たぜ来たぜ、見えたぜいいかえ」
吉「ヨシッ」
○「ヤイ此ン畜生、太い奴だ、モウ勘弁ならねぇ」
吉「なにが太い野郎だ。巫山戯やァがるな」
ポカリ、ポカリ、
吉「あー痛いッ痛いッ」
○「我慢をしろ。殴り合いをしなくちゃ喧嘩らしく見えねぇ」
吉「殴り合いだって余り酷く殴るな。痛いやッ」
道「オヤオヤお姫様、またあそこで喧嘩が始まりました」
雪「乳母や、いけないよ。あの喧嘩は馴れ合いだから」
道「マア左様でございますか。馬鹿な奴でございますね……」
話しながら来るとも知らず、
○「ヤイこの野郎、今日こそ我慢が出来ねぇ、叩き殺すからそう思え」
吉「ナニ、コン畜生、殺すなら殺せ、俺はお前の喉笛に噛み付くから」
雪「コレコレ、お前方、馴れ合い喧嘩なんかすると利かないよ。見っともない。サア乳母や、一分ずつおやりよ」
二人は顔を見合わせて苦笑い、
○「エヘヘ……どうも恐れ入りました。ざま見ろィ、手前がドジだから一両になり損ったじゃないか」
吉「マア一分だって元が欠けた訳じゃないから仕方がねぇ。エーお姫様、どうも相すみません。ありがとうございます」
こういう風で雪姫は、これが面白いから毎晩のように乳母と共に柳原へ出掛けて来て、喧嘩の仲裁をして面白がっているうちに、何時かこの事が城内に聞こえた。
ちょっとした解説:「活世間」と書いて「せけん」と読ませている。この様な当て字が随所で使用されているのは、昔は当り前であったが、現代の感覚からすると少しだけ珍しく面白い。喧嘩をしてお金を儲けるというのは一つのパターンだ。吉公というのは落語でいうと与太郎のようなキャラクター、喉笛に噛み付くが何度も出てくるのはひとつのギャグだということになる。子供向けの物語に遊廓が出てくるのはどういうことかというと、昔の物語では定番の場面だからで、深い意味はない。子供も深く考えずに読んでいたのだろう。