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かなり昔に他人が他人にしたどうでもいいアドバイスから今も影響を受けている

まだ SNS がなく、掲示板やブログのコメント欄で人々がコミュニケーションを取っていた時代のお話である。

詳細は覚えていないのだが、太宰治はなぜ自殺したのかというブログ記事があった。当時のブログとしては、わりと真面目に論考されている印象だった。そこに「太宰の年齢を越えた今だから分るけど、太宰はまだ若くて馬鹿だから馬鹿みたいなことをして自殺した」といったコメントがついた。コメントした人に悪意はなかったのだろうが、記事を書いた人にしてみると、まぜ返っされた気持になったのだろう。「そうですね」といった冷やかな返信がされていた。

このコメントの内容については、特になにも思わなかった。そもそもだが「若くて馬鹿だから馬鹿みたいな行動を取った」という意見自体には新規性がない。文学関係のいくつかの本でも、同じような指摘がされている。少々意味合いは違うが「若書き」なんて言葉も存在するほどで、若い人間が馬鹿なのは当たり前のことだ。

なのでコメントの内容については「ふーん」と思っただけだった。ただ「若い馬鹿は馬鹿なことをとする」と断言している本人が、全く雰囲気が読めていないコメントを残している--つまり馬鹿な行為をしている--ことや、記事を書いた人の冷やかな反応が面白く、私の頭の片隅にこの出来事がずっと残っていた。

あれから十年以上がたった今、不思議なことに私はあのコメントからものすごく影響を受けている。長い時間がたち、もともと私が持っていた資質や、その後の経験などから「若いから馬鹿」は「どんなに偉大なことをしていても馬鹿かもしれない」という疑い変換されてしまったのだが、とにかく私のなかでは、既存の価値観にとらわれずに考えるためのお守りのような存在だ。

今の私は明治や大正時代の雑文を日常的に読んでいる。そうすると「馬鹿だからこんな文章を書いた」といった事例に頻繁に触れることになる。昔に書かれた活字になっている文章なのだから、それなりの価値があるのだろうと思いたくなることは多い。ましてそれなりの金額を払い、苦労をしてようやく手に入った資料には、価値があると思いたくなるものだ。それでも空振りは空振りだと、素直に認めることができていると思う。

先程も書いたように、これはたいした考え方ではない。しかし一般的な評価や自分がかけた労力を度外視し、それがどういう価値を持っているのかと考えるのはわりと難しい。だから余計に無意識のうち雰囲気を読まず「(偉大な仕事ではあるけれど)若いから馬鹿だ」と宣言してしまう行為を、考え方のひとつとして取り入れることができたのは、幸運なことだと思っている。

すでに記憶が曖昧で、あのブログを発見することは難しい。ブログを書いた人や、アドバイスをした人が、今なにをしているかは知らないし、彼らがどの程度の知見を持っていたのか確かめるすべもない。最早あのやり取りは、彼ら二人にとっては、どうでもいい出来事になっていることだろう。そんな他人同士で起きたどうでもいい出来事が、私にとってわりと大事な知見になっているのは、なんだか妙なことだと思う。

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