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「まんが おやさま」を読み直す 5/48 「はたらく=傍楽」の逸話など

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「まんが おやさま」の第5回。後に世のため人のために無償で「ひのきしん」にいそしむ信者さんたちの姿に触れて、「天理教はスゴい」と感銘を受けた松下幸之助という人が、自分の言葉のように折に触れて引用していた「働くとは傍々はたはたの人を楽にさせること」という有名な言葉が、この回では早くも登場している。もっとも、「経営の神様」と呼ばれていた松下氏のような人の視点からするならば、「周りの人が幸せになってくれるなら給料は要らない」と言って無償労働を引き受けてくれる天理教の信者さんのような人たちほど「都合のいい存在」はありえないわけであり、そういう人たちを「見習え」と説教される松下電器の労働者の皆さんの立場からしてみれば、たまったものではなかったのではないかと思う。松下幸之助という人自身は本当に「自分の利益」よりも「世界中の人の幸せ」を優先して考えることのできる人だったのか、寡聞にして私は知らないのだが、もしそうだったら自分の会社に「ナショナル」などという名前はつけなかったはずだろうと思っている。「自分の国さえ良ければいい」という価値観が、そこには既に滲み出ている。なのでそういう人には中山みきという人の名前をあんまり語ってほしくないというのが、私個人の正直な気持ちである。

それにしても、「はたらく」という動詞を「傍」「楽」という名詞と形容詞に分解し、そこから「言葉のなりたち」を説明するというようなことは、日本語の文法構造から考えて到底ありえない話であるわけだが、中山みきという人はこうした「言葉のアクロバット」を駆使して人を感心させるタトエ話を作り出すのが、めっぽう上手かったらしい。「徳」とは「十苦」で、苦労することがこの世の宝となるのやで、とか、塩というものは自分が溶けて周りの味をよくするから、やさしい人のことをしおらしいと言うのやで、とか、全部が全部本当に中山みきという人の教えだったのかどうかは分からないのだけど、昔々の「天理教の先生」たちは大体そういう言い方で、「神さまの教え」を人々に取り次いでいたと伝えられている。「音の鳴るのも木の実のなるのも物事の成るのも理は同じやで」という教えなどは、日本語学者が真剣に考察の対象とするに値するテーマなのではないだろうか。こうした中山みきという人の独特の言語感覚については、いずれ別に一章を設けて詳しく論じてみたいと思っている。

子どもの頃にこの回を読んだ時には、前回あれだけ恐ろしげに見えた「しげさん」にもようやくみきさんは認めてもらえて、良かった良かったと心から喜んだ私だったのだが、しかしながらオトナになるにつれて、これは恥ずかしい話なのだけど、だんだん素直にはそう思えなくなって行ったということを、告白せねばなるまい。それというのも、私というのは絶望的に「仕事のできない人間」なのである。基本的に「ひとつのことに集中すると周りが見えなくなってしまう性格」だからなのだろうか。浪人時代に初めてカフェバーでアルバイトをした時など、ひどかった。やらなければならないことが同時に3つぐらい重なると、たちまちパニックに陥ってしまう。それで先輩に「落ち着け!」と怒鳴られる。そうだ落ち着かなければならない、と私は思う。そして「落ち着く」とは果たしてどういうことなのだろうか、ということについて考え始めてしまう。例えば和服をピッチリ着こなして、一部の隙もない姿勢で抹茶を点てている女性。これは、落ち着いている。だからそういう感じで行けばいいということだろうか。いやしかしだ。それとは全く対象的に、だらしない格好で酒場で足を投げ出して、バーボンを飲みながら鼻歌を歌っている男性。これはこれで、落ち着いている。だとしたら、私はどっちで落ち着けばいいというのだろうか、みたいなことを考えているとお客さんに呼ばれても全然聞こえなくなってしまうので、また怒鳴られる。慌てて動き出すと人にぶつかる。料理をこぼす。食器が割れる。私はいつだって、一生懸命だった。そのことは、請け合ってもいい。けれども今までどんな職場で働いても、周りの人から私は「やる気がなくてボーッとしていて何を考えているか分からないやつ」と思われ続けていたし、そうではないということを証明することは、自分の力ではどうしても不可能なことだったのである。

その点、中山みきという人は、何をやらせても器用で、抜群に仕事のできた人だったわけだ。そういう人は、それは誰からだって好かれるだろうし、周りから頼りにされるようにもなるだろう。しかし、私みたいな人間にそれを見習えと言われても、無理なのである。無理だったのである。そんな挫折を繰り返しながら生きてきた私の中に、「おやさまは、いいよな」「でも自分は、おやさまみたいにはなれない」という気持ちが芽生えてきたとしても、誰にそれを責められると言うのだろうか。いやまあ、じっさい全方向から責められっぱなしの人生を、私は送ってきたわけであるのだけれど。

それで私は何を言おうとしていたのかと言うと、結局今回に関しては、グチが言いたかっただけなのかもしれない。そんな情けない私が、中山みきという人の伝記を書こうとしている。前途は多難である。このマンガに出てくる「しげさん」みたいな人が、今でも私は一番怖い。私だって「傍々の人に楽になってもらうために働く」ことのできるような人間に、なりたいと思っていないわけではないのだけれど。気を取り直して次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。