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「まんが おやさま」を読み直す 6/48 「かの」の話 前編
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最初に書いておくのだけれど、今回から2回に渡って展開される「おかの」という少女をめぐるエピソードは、「何から何まで作り話」である可能性が極めて高い逸話である。初出はおそらく、中山みきという人の外孫で、彼女の死後に神道天理教会の管長に就任し、「初代真柱」と呼ばれた中山眞之亮氏が「明治31年」の日付で書き残した「教祖様御伝」と呼ばれる文書であり、その内容があまりにドラマチックであるためだろうか、渡辺霞亭、村松梢風、武者小路実篤といった当時の文人たちによって様々に脚色された形で巷間に伝えられ、広く人口に膾炙する挿話となって、現在に至っている。しかしながら数回前の記事で触れたように、当時の中山家が果たして「女中や使用人を置くような家」だったのかどうかということ自体がそもそも疑問であり、また詳しくは後述するが、中山みきの長男だった秀司という人が内縁関係にあった女性との間に作った女の子に「おかの」という名前をつけていたことから考え合わせても、このエピソードにおける「おかの」という女性の実在性は極めて疑わしいと考えざるを得ない。それにも関わらず「おかの」の話が天理教内外の人々の間で広く語り伝えられてきたのは、人々が「天理教教祖中山みき」という人にどんなイメージを「求めて」きたかの表れであるように感じられ、その意味では「単なる作り話」として片付けてしまうわけにも行かない挿話であると、個人的には思っている。
「まんが おやさま」が始まった時に4歳だった私は、この回を読んだ時には5歳になっていたはずなのだけど、当時放送されていたアニメの「忍者ハットリくん」に出てくる「ツバメちゃん」にちょっと似た感じで描かれていたこの「おかの」という少女の顔に、一目で釘付けになった。「美しさではだれにも負けへん!」と自分に言い聞かせている彼女の顔に、「そうやそうや!」と応援してあげたい気持ちになったことを覚えている。いま読み返しても、明らかに意図的にそのように描かれていると思うのだけど、この回に関してはこのマンガの主役は中山みきという人ではなく、誰がどう見ても「おかの」なのである。子どもだった私が「主役の女の子」に感情移入したのは、当然のことだったと思う。まして大体の男の子にとって、物語に「美しい女の人」が登場したらそれは必ず「いい人」なのであり、それを「悪人」と思えと言う方が無理な相談なのである。オトナになった今でもやはりそれを多少は無理な相談だと思ってしまう自分を私は否定できない。
それにそもそもこのおかのさんは、少なくともこの回においては、「悪いこと」など何もしていない。人を好きになるということは無条件で「いいこと」であるはずだ。それを、「そちはとんでもない女だ」とか「つまらぬことを言うものではないわ」などという言葉で突き放してしまうことのできる善兵衛という男は、何てひどい人間なのだろうと本気で思ったものだった。「横恋慕」ということの何がいけないのか、当時は全く分かっていなかったし、正直今だって、それが「いけないこと」であるという世の中の常識に納得して従っているつもりはない。人間が人間を好きになるということは、そもそも人間の思い通りになることではない。人間は「神」がつくったものだという天理教の教理に照らして言うなら、それは人間をそういう風につくった「神」の側の責任というものだろう。人間の責任ではないのである。
だからおかのという少女にはきっと何らかの「救済」が待っているに違いないと信じて、「急展開の次号を待て!」という欄外のアオリ文字に期待していた私だったのだけど、次号が届いたらその急展開の内容というのが5歳の男の子の想像を完全に超越する内容だったもので、それは一生忘れることのできない「原体験」みたいな記憶として私の中に刻みつけられることになってしまった。という話を先回りして今することもできないので、とりあえずはこの記事の方も、続きは次回に回したい。
「横恋慕」といえば、中島みゆきさんに同名の曲があったことを思い出して、調べてみたら、この回の「まんが おやさま」のちょうど一年前にあたる1982年9月に出された曲だったことが分かった。中島みゆきさんと私の出会いも、確か同じくらい小さかった頃に、天理教の雑誌を通じてのことだったのだった。北海道の敬虔な信者さんの家で育たれたという中島みゆきさんの中にも、「おかの」という少女とどこかで出会った記憶は、あったことだろう。そしてその中島みゆきさんが「横恋慕」というタイトルで曲を書いた時、「おかの」のことを思い出していなかったはずはなかっただろう。といったことを、この記事を書いていてちょっと思った。そう思って改めて聞いてみると、とてもすがすがしい曲だと感じる。歌の主人公の「消え方」が、すがすがしいのである。「おかの」に「救済」がありうるとしたら、そういったすがすがしさの中にしかありえないような気がする。といったことどもも含めて、何はともあれ次回に続きます。
サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。