見出し画像

「教祖絵伝」を読み直す 7/25 「立教」再考その3 天理教とは何だったのか

p43
p44
p45
p46
p47
p48

「神として生きた女性ひと」であるところの中山みきという人が「神として生きること」を開始した結節点は、史実として確かに存在した。けれども天理教という宗教が「立教にまつわる史実」として伝えているその内容には多くの「うそ」が含まれており、かつその「うそ」の出処をたどってみたなら、それを人々に伝えかつそれを事実であると人々に信じさせることのできる立場にあった人物は、物語の当事者であるところの中山秀司という人以外に考えられないということを、私はここまで6回分の記事を使って論証してきた。「論証」という言葉を使うにはそれなりの決意が必要だったことを、読者の皆さんにはお含み願いたいと思う。

今まで私は「立教」とは「何」だったのかというテーマで話を進めてきたわけだが、事実関係がここまで明らかになってきた以上、問題をそこにとどめておくことはもはやできない。事ここに至っては、「天理教」とは一体「何」だったのかということが正面から問題にされねばならない時がやってきたのだと言わねばならないだろう。

結論から先に言わせてもらうなら、天理教という宗教は「中山秀司の宗教」なのだと私は思っている。秀司という人が母親のみきさんの反対を押し切って「教会組織」の建設を構想したことから天理教の歴史が始まったことは、教団自体が公認している事実であり、「良くも悪くも」秀司という人の存在を抜きにして今の天理教はありえなかった、ということに異論を唱える人はいないだろう。けれども秀司という人は、「母親のみきさんの説いた教え」を守ったり広めたりするために「教会組織」を作ろうとしたわけでは別にない。秀司という人は「自分の作った教義」を「母親のみきさんの教え」であるかのごとく偽って、「自分の教会」に集まってくる人々に教え続けていたわけであり、その最も端的な姿が、まことしやかに流布されてきた「立教」をめぐる「作り話」の中に示されているわけである。現在に至るまで「中山みきの説いた教え」として伝えられている様々な教義の中にも、同じような「秀司の作り話」が含まれていないと誰に言えるだろうか。

事実、「中山みきの教え」として「天理教教典」その他で語られている現在の天理教の教義のかなりの部分は「秀司が作った教義」であり、中山みきの本来の教えとは真逆なものになっているというのが私の見解である。(正確には秀司「達」と言うべきだろうが、「達」の中味については今はまだ触れない)。もとより、「秀司が作った教義」は「中山みきの教え」が先に存在していたことを条件として形成されたものであるわけで、全く無関係なものだとは言えないのだが、そのことが話をややこしくしている。天理教の教えの中で「中山みきが説いたこと」と「秀司(達)が勝手に付け加えたこと」とは文字通り、ぐっちゃぐちゃになっており、どこからどこまでがみきさんの本当の教えで、どこから先が「みきさんの名を借りた第三者の主張」にすぎないかということを正確に見極めることは、容易なことではない。

「転輪王講社」と名づけた自分の教会に秀司が祀りこんでいた、「十柱の神像」の一部。向かって左が「くにとこたちのみこと」、右が「をもたりのみこと」の姿であるとされており、画紙には当時の秀司のブレーンだった日暮宥貞という僧侶の署名がある。(櫟本分署跡参考館蔵)

たとえば中山みきという人は、「すべての人間は平等である」という教えを説いている。このことは天理教の人なら誰もが知っている。と言っていいことであると思う。

けれどもこの「すべての人間は平等である」という一文の「人間は」と「平等である」との間に、「神の前に」あるいは「天皇の前に」というたった一言が付け加わったなら、教えの内容は丸っきり違ったものになってしまう。秀司という人が中山みきという人に対してやったことは、それに近いことなのである。

「すべての人間は平等である」という教えに込められた「願い」は、「人々が互いにたすけあい尊敬しあって生きることのできる社会を築くこと」にあるわけであり、それを一人一人の人間が「自分の願い」として、自由な意思にもとづいて「たすけあい世界」の建設に踏み出してゆくことを、中山みきという人は求めていたのだと私は受け止めている。けれども「すべての人間は神の前に平等である」「天皇の前に平等である」という「教え」に込められたメッセージは、「神に従え」「天皇に従え」「人間に自由はない」ということ「だけ」なのである。そして事実、「明治」から「昭和」にかけての時代においては、それを中山みきという人の教えだと信じた無数の信者さん達が、競って戦争協力の道を歩んでいった歴史が天理教という宗教には存在している。

もっとも、「神」や「天皇」といった「特別な存在」に付き従うことで、自分だけが何か「特別なえこひいき」をしてもらいたいといったような動機から「信仰」に参加する人々というのは、そもそもその根性がゆがんでいるのである。その手の人々は本質的には「自分の利害」に従って行動しているだけなのだから、その「自分の利害」を否定せず、かつそこについて回る「不安」や「うしろめたさ」を適当にごまかしてくれるような教理があったなら、別に中山みきという人の教えでなくても喜んでそれに従ったことだろうと思う。秀司が作った教団は、ある意味ではそういった当時における「標準化された人々」が「宗教に対して求めるもの」を的確に提供することができたからこそ急速に発展することができたのだと見ることも可能なわけで、「だました」とか「だまされた」とかいった関係から言うならば、どっちが悪いということにもならないだろうというのが私の見解である。そして秀司という人は、そんな風に自分のことを「神に認められた特別な存在」だと思いたいタイプの人々の心を掴む技術に、明らかに長じていたのだと思われる。

しかしながらそういった「信仰」の仕方に「誇りと実感」を見出していた人々に、中山みきという人の本当の教えを「理解」することは、最後までできなかったことだろう。「人間に序列をつける思想」を隠し持っている人間は、「人間は平等である」という教えに触れてさえ、「自分だけは特別でありたい」というフィルターを通してしかその思想を「理解」することができないようになっているものなのである。秀司という人が作った教義は、そういった人々に対しては非常に「わかりやすい」内容のものになっている。けれどもそれを「わかった」と思えば思うほど、中山みきという人の実際の教えは「わからなくなってくる」はずである。秀司という人は記録からうかがえる限り、母親であるみきという人のことを結局死ぬまで一度も「わかろうとした」ことのなかった人間だったのだから。

「秀司の気持ちならよく分かるが、中山みきという人のことは、結局のところよく分からない」と感じている人々が、天理教の中には数多く存在している。私自身も、かつてはそう感じていた。けれどもその人々が「学んで」きたのが「秀司という人自身の作った教義」であったとしたなら、その人々は秀司という人が中山みきという人のことを「わからない」「おそろしい」と感じ続けてきた正にその感覚を「追体験」し続けてきたのだということになる。「わからない」と感じるようになるのは当然のことだと思う。自分は「教祖の教え」に学び「教祖のひながた」を歩んでいると信じている多くの信者さん達が実際に歩かされているのは、「秀司のひながた」に他ならないわけなのである。

しかしながら中山みきという人は、すべての人間の胸には「倒しあって生きるのではなく、たすけあって生きること」を願う「神と同じ心」が必ず宿っているということを確信し、その心を持った人になら誰でも「わかる」ような言葉で、自分の教えを語っていたはずなのだ。彼女のことを「知りたい」と願う人が、「誰それはこう言っていた」とか「どこそこにはこう書いてあった」とかいった「借り物の情報」に頼るのでなく、彼女が教えた通りに「人をたすける心」になって「自分の頭で考える」ということを本気で実践してみたならば、彼女が本当に考えていたことは、自ずと「わかって」きて然るべきであるはずだと私は思っている。

「立教」をめぐる伝承についての考察を開始するにあたり、秀司の気持ちをおもんぱかることにばかり熱心な人たちは秀司の信者になればいいのだと私が書いたことは、決して洒落や冗談ではないのである。「秀司の立場に立つということ」は、取りも直さず「みきさんの思いを否定する立場に立つこと」に他ならないということを、自覚することのできない信者さんはよもやいらっしゃらないはずだと私は信じてやまないのだけれど、今げんざい天理教を信仰しておられる方々にとって、その事実が持っている意味、と言うよりも中山みきという人の存在は、それほどまでに「軽い」ものだとしてしか、受け止められていないということなのだろうか。

いったい、天理教の世界において、秀司という人の人格は非常におとしめられていると言うか、軽く見られている。そしてそのことを通じて、秀司という人は「守られて」いる。史料から読みとることのできる様々な事跡を総合するに、秀司という人は極めて有能で頭の切れる人物だったと私は思っているのだが、一般的に流布されているこの人のイメージはとにかく「ダメな人」で「主体性のない人」で「責任能力を持たない人」で、だから「悪く言ってもしょうがない」のだといったような風潮が、ずっと昔から存在している。こうしたイメージは、秀司という人をそのように見せておくことに利害を持った人々の手によって、「つくられた」ものだと私は考えている。「利害を持った人々」とはつまるところ、みきさんの意思に反した「教団創設」という事業の立ち上げにあたって、みきさんとではなく秀司と行動を共にしていた人々の手によって、ということである。

一方で、秀司という人は「真面目な信仰心」は持ち合わせていなかったかもしれないが、一貫して「親孝行」な人だった。そこは、評価すべきだ。といったような見方が存在している。確かに「信仰心」を持っているかどうかで人間を「評価」するような態度は間違っていると私も思うし、中山みきという人の教えを踏まえるならば、「人間」が「人間」を「評価」の対象にするようなことはそれ自体が間違っていると思う。ということを言い出すと「評価すべきだ」という言い方自体も、どうなのだ、ということを問題にせざるをえなくなってくるわけではあるのだが、それについては措くとして、実際「信仰心」など持っていなくても「立派に生きている人」というのは、世の中にいくらでもいるのである。そのことを素直に認めることのできる人が、飽くまで他の宗教団体に所属しておられる方々に比べてという基準ではあるが、割と多いように感じられるのは、天理教という宗教の「いいところ」だと私は思っている。おそらくそういうあたりには、中山みきという人の精神が今でも「ちゃんと」息づいていると言えるのだろう。

そのてん、みきさんの長女のおまささんという人などは、実に立派に自分の生き方に「筋を通した」人だったと私は思う。嫁入り先から出戻って、中山家のすぐそばに一軒家を建てて暮らしていたおまささんは、「お屋敷」での信仰生活に参加するでもなく、しょっちゅう酒を飲んで中山家に入り浸っては、信者さんにカラむようなことを繰り返していたらしいのだが、いざ弾圧が始まると誰よりも体を張って母親のことを守り、巡査もひるむような迫力で官憲につかみかかっていったということが伝えられている。「教義」を語ることができようとできまいと、そんなことはどうでもいいのである。その人が「正しい人」であるかどうかは、こういう場面で真っ直ぐに「真心」を発揮できるかどうかによってのみ、はかられるものだと私は思う。その意味、おまささんの生き方は、「自分もこんな風に生きたい」と私に強烈に思わせてくれるものであり、私にとってはかけがえのない「ひながた」としてあり続けている。

けれども秀司という人は、「真面目な信仰心」を持っているわけでも何でもなかったにも関わらず、自分が先頭に立って「教会」の真似事をやっていた人なのである。それが真面目に信仰生活を送っている人たちにとって、どう「見本」になることだというのだろう。むしろ、いちばん真似してはいけないことではないのだろうか。母親の語る「神の言うこと」に納得が行かないのであれば、無理してつきあう必要など、ないのである。「無理に来いとは言わんでな」と、中山みきという人は繰り返し教えている。逆らえばバチが当たるとか恐ろしいことが起こるとか、そんなことは一言も教えていない。それなのにどうして「信じてもいない神」を「信じているふり」など、するのだろう。そういうことを果たして「親孝行」だと、言えるのだろうか。しかもその「神」を祀った「教会」を作ったら作ったで、母親の教えを好き勝手に改竄して作った「自分の教義」を、「母親の名前をかたって」彼氏は人々に教えていたのである。この人のやっていたことというのは何から何まで「うそばっかり」だったではないかとしか、私には思えない。

中山秀司という人は「正しい心」を持った人物ではなかった、ということを誰もがうっすらと感じ続けているにも関わらず、誰も彼氏のことを表立っては悪く言えない雰囲気が形づくられたまま漫然と歴史を重ねている天理教の世界のありようは、「昭和天皇」裕仁の戦争責任というものを誰もが頭では理解できていて然るべきはずであるにも関わらず、ひたすら彼氏の「遺徳」を称える人間たちの手によって天皇制が護持されている現状を許容し続けている日本社会のありようと酷似していると私は感じている。そのことが、歯痒く思える。

「昭和天皇」裕仁は、1936年の2·26事件に際し、「上官の命令」ではなく「自分たちの意志」にもとづいて行動しようとした青年将校たちの「身の程知らずさ」に対する強い怒りをむき出しにして、自らその鎮圧の指揮をとった人間である。「戦争責任はなかった」とか「責任能力がなかった」とかいうのは大ウソなのであって、首都中枢で発生したクーデターという極めてシビアな事態にあれほど主体的かつ積極的な姿勢で対応することのできた人物が、「軍部の言いなりになって開戦の詔勅にサインさせられた」ようなことなど、あるわけがない。「自分の利害と欲望」、そして身分差別制度の上に形成された「ゆがんだ誇り」にもとづいて彼氏は戦争を起こしたのだし、やめる時にも「自分の利害」にギリギリまでしがみつこうとした上でなければ、やめる決断を下さなかったのである。世界中の人々がそう思っているし、とりわけ自分につながる人々が「天皇の軍隊」によって殺された歴史を持っている国や地域の人々は、誰よりも鋭く彼氏の人間性の本質を見抜いている。

けれどもそうした「理屈」をこちらが百遍繰り返そうとも、「天皇陛下は利用されたのだ」とか「天皇陛下はかわいそうだ」とか言いたがる人々は結局最後までそれを言い続けるものなのだということを、我々は知っている。その手の人々は天皇裕仁という人間の「人格」など、全く見ていない。そのことの上で「自分ほど陛下のお気持ちを深く理解している人間はいない」ということについて、一人一人が圧倒的な自信を持っている。どこまで行っても「自分の見たいもの」しか見ようとしないし、「自分の信じたいこと」しか信じようとしないのが、その手の人々なのである。

その手の人々がなぜ「そう信じたがる」のかといえば、「そう信じておけば、自分が問われなくても済むから」ということに尽きているのだろうと私は思っている。「明治」以来1945年に至るまで、国家を挙げて推進されてきた侵略と植民地支配の「戦争事業」に、日本人の大部分は「自発的」に協力し、生命そのものまで含めた自分たちの存在すべてを捧げ「させ」られてきた歴史を有しているわけだが、そのことのすべてが「無意味」であったどころか、侵略した先の人々から百年経っても消えないような恨みを向けられるほどの「悪事」に他ならなかったという事実を「認める」ことは、確かに身を切るよりも「苦しい」ことに違いないだろう。しかも当時において戦争に協力していた大半の人々の心のありようは、「イヤイヤ」であったどころか「乗り乗り」だったわけなのである。世の中の一般的な基準から言えば「やさしい」人ばかりで構成されていたはずの天理教関係の当時の出版物を見ても、当時の信者の人たちがどれだけ「勇んで」戦争協力に邁進していたかということが、誇張はあっても嘘はない筆致でもって、毎号毎号ウンザリするぐらいに延々と綴られている。その「乗り乗りだった心の中身」を後になってから「問われる」ことは、確かに大抵の人にとっては死んだ方がマシなぐらいに「恥ずかしいこと」ではあるだろう。

だが、その「戦争」という「巨大な悪事」において、最も重大な責任を問われるべき立場にあった天皇という存在がそれを「問われなくて済む」ものであるのだとしたなら、「天皇陛下の御為に」という言葉のもとにその悪事の具体的な部分を遂行してきた臣民たちの一人一人もまた、「問われなくて済む」ことになるわけなのである。その「どこまで行っても自分たちにとって都合のいいフィクション」を、一人一人の臣民たちが必死で「信じ続けようとすること」は、ある意味では「自然なこと」であるのかもしれない。「天皇」と「臣民」との間には、その関係が開始された瞬間から現在に至るまで、一貫してそのような「共犯関係」が成立している。「だました」とか「だまされた」とかいった関係から言うならば、どっちが悪いということにもならないだろうというのは、この関係においても当てはまる話である。そして、その天皇家の祖先神を祀りこみ、中山みきという人を天皇家の「親神」にあたるとされているイザナミノミコトの「生まれ変わり」であると唱える秀司の教団=現在の天理教は、正にその「天皇と臣民の共犯関係」の中に自らを積極的に組み込むことを通して、今日に至るまで「自らを問わせない構造」を維持し続けてきたわけである。「天皇制の力」を「自らの力」としてきた天理教団が、天皇制と同一の構造にもとづいて自らの過去を居直り続けてきたことは、何ら奇妙なことではないし、その関係性の内側においては、特に非難されるにも当たらないような話であるのだろう。

しかしながら、そうしたことは「理解できること」ではありえても、「肯定できること」では到底ありえないことであるはずだと私は想う。そんな欺瞞は、せいぜい日本という狭い島国の内側でだけは通用するものでありえても、一歩そこを出た世界においては決して通用しない。そして中山みきという人自身は、神道国教化、学制、徴兵令といった何重もの「踏み絵」を通して「天皇と臣民の関係」がゼロから構築されつつあったまさにその端緒の時代において、自分自身がその関係に組み込まれることをハッキリと拒否した人だったのである。「ほこりは、よけて通れ」と彼女は教えた。「立教」の前年に大坂で燃えあがった大塩平八郎の乱、幕末の日本を席巻した尊皇攘夷運動、「維新」後に相次いだ不平士族の反乱、それと入れ替わるように勃興した自由民権運動、こうした形で彼女の生きた時代の全期間にわたって渦巻いていた「社会に対する異議申し立て」の活動のどれに対しても、彼女は積極的に関わろうとしたような形跡を残していない。けれども天皇制国家権力の弾圧が「天皇も百姓も同じ魂」という自分自身の信念に対して及んだ時には、彼女は決して逃げも隠れもしなかった。数え年で89歳の身体を厳寒の獄中での拷問にさらし、人間の体は穏やかに暮らしていれば115歳まで生きられるようにできているものだということを知っていながら、その寿命を自分の意思で25年も縮める行為を通して、「正しい人間の生き方」というものを、彼女は自分の周りにいた人々に示しきったわけなのである。彼女のことを「えらく見せたい」人間たちが、彼女は天皇家の祖先神の「生まれ変わり」だったなどといくら説教してみせても、世界の人々にとっては知ったことではない。けれども彼女の示したその生き方が世界中の人々の知るところとなったなら、誰もが「なるほど」と納得し、彼女に対して自然な尊敬の念を抱くに違いないはずだと私は思う。その最も輝かしい彼女の「ひながた」が、他ならぬ「天理教」の人たち、彼女の後継者であることを自認しているところの人たちの手によって「隠され」続けていることが、私には耐えがたく感じられるのである。それでは中山みきという人の残した「思い」は、あまりにも「浮かばれない」ことになってしまうではないか。

私自身は、自分が天皇制などという世界の誰をも納得させることのできない独善的な思想にもとづいて対外侵略と人殺しを繰り返しかつそのことを居直り続けている日本という国家のもとに生まれた人間であることをずっと「恥ずかしい」と感じ、かつ前世紀において自分につながる人々を「乗り乗りの戦争協力者」に仕立て上げる役割を果たした天理教という宗教のことを「憎んで」生きてきた経歴を持っている人間である。そのために私は天理教からも自分の実家からも、長きにわたって距離を置いた暮らしを続けてきた。けれどもそれ以降、反戦・反差別の運動に参加してゆくようになる中で、日本の近代史において最もラディカルに天皇制と対峙する視座を有していた思想家は、実は中山みきに他ならなかったのではないか、ということに気づかされる契機があり、私は彼女との「出会い直し」を果たすことになった。そのことが、私が彼女の伝記を書いてみたいと思うに至った気持ちの出発点をなしている。

国家や社会の総体が「間違った方向」に向かって一斉に動き出した時、それに流されることのない生き方を貫くことのできる人の数は少ないし、その中において「人の見本になるような生き方」を貫くことのできる人の数はさらに少ない。この事実はしばしば人を絶望的な気持ちにさせるが、「加害者になった国」の歴史を引き継ぐ人間には「絶望していい権利」すら与えられていないはずだと私は思う。「間違った歴史」を居直り続けている国に生まれて、「間違った価値観」に染まりきって暮らしてきた自分という存在は、「間違った存在」以外の何ものでもありえないのではないか。そんな風にまで思えてならず、何をどうしていいかさえ分からなくなってしまった瞬間が、私の人生には何度となくあった。けれども「間違い」を「間違い」と認めた上で、それを二度と繰り返さないためにはどのように生きるのが「正しい」ことなのか、という風に問題を立てた時、そのあらゆる間違いの「はじまりの時代」にあって、「中山みきのように生きた人が日本にはいた」という事実は、ほとんど唯一の「救い」であるように、私には感じられたのである。

日本以外の国の人々、とりわけ日本という国家から侵略と植民地支配の対象とされてきたアジア地域の人たちは、日本人である我々のことを根本的なところで信用していないし、また私たちに対して容易に心を開くことをしない。そのことは、当然のことであると思う。「天皇」という「人間」を「神」として仰ぐ、それこそ他国の人間には理解不能な宗教的熱情の赴くままに行く先々で人を殺して回り、そのことを反省する素振りも見せず、同じ人間の子孫を「国民の象徴」として「敬愛」し続けているのが「我々」なのである。しかも、前回の戦争に敗れた際に「二度と戦争はしない」と対外的には「約束」してみせているにも関わらず、裏ではしれっと「自分の軍隊」を再建している。こんなに「何を考えているか分からない気色の悪い国民」は他のどこにもいないと、私が別の国に生まれていたなら必ず思うはずだし、例え笑いながら言葉を交わす関係になったとしても、心の底の警戒感は絶対に解かないはずであると思う。

けれども、戦争に勝って「天皇陛下に喜んで頂く」ことのために「生命を捧げる」ことが「国民の道徳」であるという価値観が日本社会を席巻し始めた最初の段階において、それと真っ向から対決するように「人間は倒しあうためでなく、たすけあうために生まれてきたのだ」という教えを説き、その信念を守り抜くことに「生命を捧げた」女性が、同じ日本には存在していたわけなのである。自分はその志を引き継ぐ人間であり、もし自分の国が「同じ間違い」を繰り返しそうになったなら、迷うことなく「同じ生き方」を貫きたいと決意している、ということを、私は世界に向けて堂々と宣言できる人間でありたいと思っている。それが私が「日本人として」胸を張って口にできる唯一のことだと思うからである。その出発点に立つことを通して、初めて我々は本当の意味で、世界中の人々と共に「何かを始める」ことが可能になるのだと思う。戦争や競争の「勝者」たちによってのみ占有されている「夢」でなく、世界中の人間が等しく「共有」することのできる「夢」というものがもしありうるとしたならば、それは「人間は倒しあうためでなく、たすけあうために生まれてきたのだ」という、中山みきという人が生涯掲げ続けた理想以外のものではありえないということを、私は信じてやまないからである。

そんな風に私は、世界中の人々から「なるほど」と納得してもらえるような中山みきという人の伝記をこそ、自分の手で書きあげたいと思っている。そのためには、彼女が過去世において「人類すべての産みの親」であったとか、「特別な魂のいんねん」の持ち主であったとかいったような、「すべての人間は平等である」という彼女の教えを根本的なところで無化してしまうためにデッチあげられたとしか思えない作り話の類には、極力関わりを持ちたくない。と言うか、彼女について調べ直しを始めた当初には、そうしたことも含めて全部が「中山みきという人本人の教え」であるのだろうと私自身も思っていたわけであるのだけれど、調べれば調べるほど、彼女は絶対にそんなことは言っていなかったはずだという確信の方が強くなってくるのである。そうした部分の話はおおかた、秀司とその周辺の人間たちが勝手に言い散らしていたことにすぎないに決まっている。という一言だけですべてをぶった斬ってしまうことは、しかしながら余りに乱暴な話であるということを自覚していないわけでもないので、そういった「疑わしい逸話」のひとつひとつに対しては、今後とも最低限の検証だけは加えるようにして行きたいと思っている。とはいえ、そんな作業にできるだけ時間は割きたくないと思っているのが、本音ではある。

ところで、そうした形で中山みきという人との「出会い直し」を経験した私が当初彼女に対して求めていたのは、「抵抗の人」というイメージだった。そのことは、正直に書いておかねばならないと思う。しかしながら、彼女が実際に通った「道すがら」を自分なりにいろいろと調べ直してゆくうちに、それはそれで私という人間が「自分の勝手な願望」を彼女に投影していただけの話だったかもしれないということを、最近では反省させられる気持ちになりつつある。「不正に対する抵抗」というものを、その運動の中に実際に身を置いて生きてきた個体史を持っている私自身は、依然「美しい」ものだと思っている。けれども中山みきという人は、必ずしもそうは思っていなかったらしいということが、彼女の残した様々な言葉の端々からは、ハッキリと浮かび上がってくる。そこは、「見ておかねばならないこと」であると思う。

反対する者も可愛(い)我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの。

「おさしづ」明治29年4月21日

いかんと言えば、はいと言え。ならんと言えば、はいと言え。どんな事も見て居る程に。

同上

上に引用したのは、中山みきの死から9年後、時の内務大臣芳川顕正の名前で発せられた秘密訓令にもとづいて、天理教壊滅作戦とも言うべき空前の大弾圧が開始されたことへの対応をめぐり、彼女の後継者として認められていた飯降伊蔵という人が、中山みきという人の口を通して語っていたその「同じ神」からのメッセージとして、当時の教会関係者たちに与えた「おさしづ」の一節である。「はいと言え」というのは、天皇政府に対して「はいと言って従え」と言っているように受け取れる言葉でもあるわけだ。この「おさしづ」が出されたことは、その後の天理教団が教祖中山みきの教えを完全に引っ込めて、天皇政府に屈従することで組織の延命を図る「応法の道」路線を突き進んで行ったことの、決定的な分岐点となる出来事だったということが、しばしば指摘されている。

ともすれば「卑屈な言葉」が並べられているようにしか思えないこの「おさしづ」が伊蔵さんによって出されたことは、中山みきという人への重大な「裏切り」だったのではないかと、長いあいだ私は感じてきた。けれども中山みきという人が実際にどのように生きた人だったのかということを深く知るにつれ、今ではむしろ、この時の伊蔵さんは「おやさまだったらこんな時、何と言っていただろうか」ということを本当に真剣に考えぬいた上で、あの「おさしづ」の言い方にたどり着いたのだろうな、と感じるようになっている。「はいはいと言っておけばいい」という意味で、おそらく伊蔵さんは、言ったのである。けれどもそれが「天皇政府に従え」という「おさしづ」だと受け取られてしまう可能性を、伊蔵さんは分かっていなかったわけではなかった。分かっていた上でやはり伊蔵さんは、「そういう言い方をするしかなかった」わけなのだ。その決断が天理教団の歴史にとって「正解」だったのか否かを「評価」するようなことは、私にはできない。そもそも「天理教団の歴史」などというものがこの世に存在することになったことそれ自体が、あんまり「正解」だったようには私には思えないのだが、さりとてそれを「不正解」だったと決めつけてみせるほど、傲慢な人間になりたいとも思っていない。ただひとつ言えることは、この「おさしづ」を発した時、飯降伊蔵という人は間違いなく「中山みきの思想」を語っていたのだということである。そこは、学ばなければならないと私は思っている。

中山みきという人は、「不正に対して怒ること」は、決してこれを否定していない。(「にくい」「うらみ」「はらだち」を「悪しき心づかい」であると教える「八つのほこり」の教理が彼女の教えでないということに私が「こだわる」のは、この理由によっている。彼女は「神」としての立場から、人間世界に対する「残念立腹」の思いを常に堂々と表明していた。「不正の被害者」になった人間に対して、そのことに反発する感情を持つことが「間違ったこと」だなどとは、決して教えていない。この問題については、別の機会に改めて詳述したいと思っている)。けれども彼女は、不正に対して「あらがう」「たたかう」「抵抗する」という発想は、終生これを持たなかった。いかに相手の側に非があることであろうとも、その相手との間に「倒し合いの関係」を自分の側から築きあげてしまうことは、彼女の思想の許すところではなかったのである。

「反対する者も可愛い我が子」というのは、生前のみきさんが実際に伊蔵さんに語っていたとしてもおかしくなかった言葉だったことだろうと私は思う。「正しい」「正しくない」といった言葉をここまで私自身何度も使ってきたわけではあるけれど、人類すべてに向けられた中山みきという人の「親心」に照らしてみるならば、「正しい心」を持った人間は「陽気に暮らす」ことができるものの、「正しくない心」を持った人間は「自分が苦しむ」ことになるわけである。「親である神」にはそのことが耐えられないからこそ、「相手のために」怒る。相手のことを「たすけたいからこそ」怒る。その関係が存在しているだけなのである。「汝の敵を愛せ」というキリスト教の教えよりもさらに具体的に実践的に、自分に敵対してくる人間たちのことをも「たすけずにはおかない」という姿勢と信念を持って、その人生を「通り」きったのが中山みきという人だった。このことを我々は、知っておかねばならないと思う。

しかしながらそうした中山みきという人の生き方を「スゴい」と思うことはできても、「感動」していい気持ちには正直言って今のところなれないのが、私自身の現時点における偽らざる感情であるということを、読者の皆さんには明らかにしておかねばならないだろう。世の中の不正に対しては「正面から抵抗すること」こそが最も「美しい」生き方であるという価値観のもとに行動してきた私にとって、中山みきという人の示した「ひながた」に対しては「本当にそれでいいのだろうか」という気持ちが込み上げてきてしまうのを、今の時点ではどうしても抑えられないのである。私がこのnoteを通じて彼女の伝記を書きあげる試みを開始した2024年3月以来、半年が経過した現在に至るまで、パレスチナにおいてはシオニズムという選民思想で武装したイスラエルの軍人たちによる、昔からそこに住み続けてきた人々への一方的な殺戮が止むことなく継続している。世界中のあらゆる不正が一ヶ所に集められたような地獄の環境で生きかつ戦っているパレスチナの人々に対し、「抵抗するのをやめて相手とたすけあえ」などという「説教」をぶつけることのできる人間がもしいたとしたなら、そんなのは「人でなし」以外の何ものでもありえないはずだと私は思う。「正しい生き方」を選択しようとしたなら「たたかう」以外になくなってしまうような局面というものも、人間にはやはり存在しているのではないだろうか。中山みきという人自身は「たたかうこと」を否定していたかもしれないが、天皇政府による「転向」の強要を拒否して自分の意思で監獄に赴くことを選択した彼女の行為というものは、やはり「たたかい」という言葉でしか言い表すことのできない事蹟だったということが言えないだろうか。そう思えてならない点において、少なくとも今の私は、中山みきという人とは「違った思想」を持った人間なのだということを、認めておかないわけに行かないように思う。

とはいえ私個人は、「不正にあらがう生き方」を前半生において自ら選択してはきたものの、その過程において「傷つけたくなかった人たちを傷つけてしまう行為」を何度となく繰り返し、そして自分の周りにいた人々のことをも「大切にすること」ができなかったことの結果、今では「たたかう」ことができなくなってしまった人間でもある。「倒しあい」のために全てを捧げる生き方に挫折した時、私には本当に何も残っていなかった。せめて自分と共に「たたかって」くれていた自分の周りの人たちのことだけでも、自分はどうして「大切にすること」ができなかったのだろうということが、悔やまれてならなかった。「自分の身内の人間を大切にすること」にだけ関して言えば、自分がそれまで糾弾の対象にし続けていた自民党の政治家みたいな人間たちの方がよっぽど真面目にかつ丁寧にやっているではないかという現実を突きつけられて、そのことが口惜しくもあり、情けなくもあった。今でもそれを情けないと感じている。けれどもそうした中にあって、自分の周りにいた人々のことを他の誰よりも「大切に」し続け、かつその一方で自分の思想や信念に関しては一切曲げることなく生きぬくことの「できた」人が、自分にはずっと昔からこんな身近なところに存在していたのではないかということに気付かされる形を通して、私と中山みきという人との「出会い直し」はあったのである。私が彼女のことを「もっと知りたい」と思うようになったいきさつは、そこから始まっている。だから、今は「完全に同じ気持ち」にはなれないし、なっていいとも思えない状態であるにはしても、彼女の伝記を書きあげるというこの作業の進行の過程において、私の気持ちというものもどんどん変わって行くに違いないだろうとは思っている。実際、既にいくらかは変わってきている。何しろ今の私は、中山みきという人から「学びたい」と思っているのである。

思わぬ脱線になってしまったが、私がそんな風に長々と自分の話をすることは、自分の書こうとしている文章がちゃんと公正で客観的な内容になっているか否かということを読者の皆さんに正確に判断してもらうための材料を提供しておきたいという気持ちからそうしているにすぎないことなのであって、話の本筋とは一切関係ない。とはいえ、私は私で天理教に人生をかけている「現役」の信者さんたちと同じかそれ以上に、自分自身の存在と歴史をかけて中山みきという人と向き合っているのだという気持ちだけは、この場を借りて明らかにさせておいてもらいたいと思う。

話を元に戻すなら、中山みきという人は自分に敵対してくる人間に対してさえ「反対する者も可愛い我が子」という「たすけ一条」の精神で臨んでいた、そういう思想の持ち主だったわけである。彼女のこの姿勢は文字通り「自分に反対する我が子」であったところの秀司という人との向き合い方においても、厳密につらぬかれていたのだということを見ておかなければならないと思う。みきさんの信者さんたちの真心によって建設された「つとめ場所」を「乗っ取る」形で、その内側に「自分の教会」を作りあげて「自分の教義」を教えていた秀司の行ないに対し、彼女がそれを「否定する行動」を一切とらなかったことは、そうした原則にもとづいた対応だったわけである。

自分から進んで彼女の弟子となった人々に対しては、中山みきという人は非常に「厳しい態度」で向き合っていたということが伝えられている。「おさづけ」というのは彼女が自分の弟子に「彼女の教えを人に取り次いでいい資格」を与えるための儀礼ならびにその資格そのものを指していた言葉であると私は理解しているのだけれど、弟子たちがその「資格」を悪用して「拝み祈祷」の真似事を始めたりするようなことは厳格にこれを禁じていたし、記録されているのは一例だけだが、それを聞き分けない弟子に対しては「破門」にした例もあったことが伝わっている。

けれども秀司という人は、みきさんにとっては「自分の子ども」ではあったことだろうが、「自分から進んで彼女の弟子になった人間」では決してなかったのである。血縁関係においては「親子」であっても、心の結びつきという面から言えば「他人」同士であったのが、秀司とみきさんとの関係性だった。まして、秀司という人が素直に彼女の言葉を聞き分けない「ゆがんだ心」を持つようになってしまった責任の一端は、前回で見たようにみきさん自身の側にも存在していた。自分からは独立した存在であり、一面では「自分の被害者」でもあった秀司という人に対し、「自分の弟子」と向き合うように向き合っていい理由は、みきさんの側には無かったわけであり、そしてみきさん自身はそのことを他の誰よりも深く「わきまえて」いたのだと私は思っている。

中山みきという人は、自分と意見の違う者の存在を、「力」によってはもとより、「言葉」によっても決して、「否定」することをしなかった。と私は以前に書いた。彼女の生きた時代、彼女の周辺には「口寄せ」や「狐おろし」、「寄加持」といったような様々な「迷信的宗教」の存在が渦巻いていたわけだが、それが「迷信」だからという理由でそれらを「排撃」するような行動も、彼女は決して起こさなかった。それと同じ「原則」を彼女は、自分にとって「他者」であり「自分と違う思想信条」に従って生きていた秀司という一個の人格に対しても、貫いていたにすぎなかったのだと見ておくことが必要であると思う。「おやしき」の「つとめ場所」を「教会」に改造して繰り広げられていた秀司の事業に対し、中山みきという人が「口を出す」ことを全くしなかったのは、そこに存在していたのが「他人のつくった他人の宗教」だったからである。

自分のところに直接やってくる信者さんたちに対しては、みきさんはもちろん「自分の教え」を説いていた。現代を生きる我々が彼女の本当の教えの片鱗に触れることができるのは、その人たちが大切にそのことを語り継いでくれたことのおかげである。けれどもその人たちは同じ「おやしき」の中にある秀司の教会にも、当然顔を出していたことだろう。そこではみきさんの教えと「同じようなこと」が、「もうちょっといろいろな内容」を加えて「わかりやすく整理された形で」語られており、かつみきさん本人もそこで行なわれていることを否定するようなことは言っていなかったわけだから、外から来た信者さんたちがその二ヶ所では「同じこと」が教えられているのだと考えていたのは、当然のことだったと言えるだろう。後に天理教と呼ばれることになった宗教の教義が「ぐっちゃぐちゃ」な内容のものになってしまったことには、そうした理由も存在していたのだと思われる。

それにしてもみきさんは、それで良かったのだろうか。と言えば、それで良かったのだろうと思う。と言うか、良くはなかっただろうが、自分でも何度も何度も考えて「納得」した上で、そういう態度を選択していたのだろうということだけは、言えると思う。彼女がそうした「通り方」を選んだ理由のひとつは、まず自分の信者さんたちに対しては、世界においてどんなに様々に矛盾したことが教えられていようとも、「たすけ一条」に心を定めて「自分の頭で思案する」ということを徹底してみれば、何が「正しいこと」であるかは自分の力で必ず「わかる」はずだという「信頼」を持っていたからだ、と考えられる。真理は真理だから真理なのであって、自分の教えることだけが真理であるといったような発想を、彼女は全く持っていなかったのである。

しかしながら、自分の教えが誤解されてしまうことよりも何よりも、彼女にとって最も大切だったのは、「うそ」に「うそ」を重ねて果てしなく「うそ」に染まってゆく秀司の心を何としてでも「たすけたい」という、その一念だったのだろうと私は思う。「秀司が教えていることは、あれはウソや」と彼女が一言いえば、信者さんたちの「誤解」はそれだけで雲散霧消してしまうことになるだろうが、秀司という人間はそのことによって完全に「立場を失う」ことになる。そうなったら「立場を失いたくない秀司」とみきさん達との間に、「倒し合い」が始まってしまうことになる。そういう追い込み方をしたら、たすかるものもたすからなくなってしまうのである。「うそ」をつき続けて「うそ」になってしまった人間に「たすかる」道があるとしたら、それは自分のついてきた「うそ」を「うそ」だったと自分から認めて、心を入れ換えて正直に生き直すこと以外にありえない。「うそをつきながら正直に生きること」など、誰にもできないのだから、まずは「うそをうそと認めること」からしか、何も始まらない。秀司が「自分からその気持ちになること」をうながすためには、もちろん他の誰に対してもそうしていたことではあるだろうが、中山みきという人はひたすら相手の人格を尊重し、誠実にその相手と向き合い続ける以外になかったのである。その気持ちを、見ておかなければならないと思う。

だからと言って彼女は、秀司のことは放っておけばいいなどとは決して考えていなかったし、自分の信者さんたちが自分の教えを誤解したままでいたとしても、「それでいい」とは決して思っていなかった。だから彼女は「消えない言葉」である「文字」を使って、秀司(達)の心得違いをただし、自分の本当の思いを人々に伝えるための「歌」をいくつも書き残した。それが彼女の唯一の直筆資料として現在まで伝えられている、「おふでさき」である。

「文字で書かれた言葉」には、「時間が経っても消えない」「その内容が永遠に変わらない」ということの他に、「読む人間が自分から手に取って自分で読もうとするまでは、相手の心に届かない」という特色が存在している。「どうせこうせこれは言わん」「無理に来いとは言わん」という自分の教えの原則にもとづき、彼女は秀司(達)が「自分から」この「おふでさき」を手に取って、「自分から」その心を入れ換える可能性に「賭けて」いたのだと思われる。けれども結論から言って、秀司が「自分から心を入れ換える」ことは最後までなかった。とここには書いておくしかないように思う。秀司ならびに、「おやしき」の内部において秀司と行動を共にしていた主要な人々が全員みきさんより先に死んでしまった「明治」の15年を最後に、「おふでさき」の執筆は途絶えている。みきさんは、無念だったことだろう。しかしながら、「おふでさき」に記された言葉は秀司(達)にだけ向けられたものでは決してなく、彼女のことを「知りたい」と願う全ての人々に対して今もなお「開かれた」ものであり続けているのだということを、我々は知っておかねばならないと思う。

高山のせきゝよきいて
しんしつの神のはなしをきいてしやんせ

高山の説教聞いて
真実の神の話を聞いて思案せ

3-148

という歌を、みきさんは「おふでさき」の中に書き残している。「高山の説教」とは、神道国教化政策を推し進める明治政府におもねって、自分の教会で「天皇を神とする教え」を説いていた「秀司の教義」を指す言葉であり、「真実の神の話」とはもちろん「みきさん自身の教え」を指している言葉である。それを「両方」聞いてみて、どっちが本当のことを言っているかを自分の頭で考えてみろ、とみきさんは呼びかけているわけだ。彼女の「ひながた」をたどろうとしている人間であるならば、その呼びかけに「こたえる」べきだと私は思う。私が書こうとしている中山みきという人の伝記のここからの課題は、この「おふでさき」を導きの糸として、「高山の説教」のためにぐちゃぐちゃにされた「真実の神の教え」の本当の姿を「復元」してゆくことであるということを、読者の皆さんには予告しておきたい。

私はしかし、今、悩んでいる。今回の記事を通じて、私は中山秀司という人の「うそ」を暴き、その「悪事」を告発する内容の文章を書き連ねてきたわけだが、そのことは人を裁いたり罰したりといったことを決してしようとしなかったみきさんの思想に、あるいは思いに、反することなのではないかという葛藤が存在しているからである。けれども秀司という人が自分のついた「うそ」を最後まで「うそ」と認めなかったことのために、天理教の人たちだけでなく、「一戦二戦でたすけゆく」と歌いながら出征していったと伝えられているその天理教の人たちに戦争で殺された外国の人々のような人たちまで含め、どれだけ多くの人がその人生を「めちゃめちゃ」にされてきたかということを思えば、秀司という人が自分で自分の間違いを認めて「出直す」ことのできる回路が歴史によって既に閉ざされてしまっている以上、やはりこのことは「いつか誰かが言うしかなかったこと」だったのだとしか、私には思えない。

「お道の歴史」を深く真摯に探求する過程で、現在に至るまで「中山みきの教え」として語られてきた天理教の教義の多くの部分は実は「秀司の作り話」でしかなかったのだという「私と同じ結論」にたどりついた天理教の先人たちは、100年以上にわたる歴史の中で何十人も何百人も、ことによっては何千人もいたのである。その中で最も「大きな存在」だった人の名前を敢えて挙げるなら、それは二代真柱だったと私は思っている。中山みきの曾孫として生まれ、あなたは「特別な魂のいんねん」を持って生まれた「特別な人間」なのだと周りから言われ続けて育って「管長」に就任したあの人が、やればやるほど自分の立場を危うくすることが明らかな「実証主義」の手法で教理を「復元」することにこだわったのは一体なぜだったのかということを、心ある「お道の皆さん」は考えてみてほしいと思う。

けれどもその人たちは、自分のたどり着いたその答えを、いずれも最後まで、口にすることができなかったのである。なぜかといえばその人たちはみんな「天理教のことを守りたかった」からなのだ。「お道」の中で育った人は誰でも、天理教という存在に対して自分の本当の親に感じるのと同じぐらいの「恩義」を感じている。その「お道」の中で「責任ある立場」につくことになった人たちには、自分の人生のみならず、天理教という宗教を「生きる支え」にしている何万人という信者さんたちの人生に対する責任を引き受けなければならない「義務」が生じてくる。そこにおいて、天理教という宗教の教えてきた多くの部分が「うそ」だったということを「認める」ならば、その人は自分の人生だけでなく、その教えを心から「信じて」きた一人一人の信者さんたちの人生までが「うそになって」しまったのだということを、宣告せざるを得ない立場に立たされることになるわけなのである。そのことの上で、「ウソをウソと知りながらそのことを絶対に認めようとしない人々」は、教内に確実に存在している。それを承知の上で「真実」を明らかにすることに「だけ」固執しようとしたならば、その人が大切にしようと思っている天理教の世界の内側で「倒し合い」が始まってしまうようなことにすら、なりかねないということが言えるだろう。だからその時におかれたそれぞれの立場において、「自分に言えるギリギリのこと」までしか、その人たちには言葉にすることができなかった。けれどもその「ギリギリの言葉」の中に、その人たちは文字通り「自分の良心」の全てを注ぎ込んでいたのである。

私が自分の論考をここまで書き進めてくることができたのは、そうした人たちが血文字で書き残した様々な言葉の断片が今日まで残り続けていてくれたことのおかげに他ならない。けれどもそうした言葉に触れる中で私は同時に、「うそ」を重ねるごとに自分が「うそ」になってゆく苦しみにさいなまれながら、それでも「誠実に」生きようとしていたその人たちの極限的な苦悩の叫びが、自分の胸にも聞こえてくるような気がしてならなかった。そしてそれこそが「秀司の苦しみ」であり「秀司が作り出した苦しみ」だったのだということを、私は思った。元々は、「たったひとつのうそ」が存在していただけだったはずなのである。それが秀司が誰に対してついたどういう「うそ」だったのかということまでは、我々にはわからない。今までに我々が見てきた「立教」にまつわる「作り話」が、あるいはその「最初のうそ」だったのかもしれない。けれどもその「うそ」は、いったん秀司の口から出たら最後、秀司自身にも止めることのできないものすごい勢いで自己増殖を繰り返し、ついには140年が経過した現在に至るまで、これほど多くの真面目な心を持った人々の人生を「めちゃめちゃ」にしてしまう結果をもたらすことになったわけなのだ。その苦しみから秀司を、中山みきという人は「たすけだそう」としていたのである。それはどれだけ絶望的な「たたかい」だっただろうかということを、思わずにいられない。けれども私がそう思ってしまうのは、おそらくは私という人間がいまだ中山みきという人のことを「よく分かっていない」からなのだ。分かっていないことの上で史実を丹念に読み込んで、ひとつだけ言えることがある。中山みきという人は、その生涯において「絶望」を感じたことなど、一度もなかった人だったのである。

我々は、改めて確認しておかねばならないだろう。秀司という人が「通った」のは、最初から最後まで一貫して、彼にとって一番「ラクそうな道」でしかなかった。彼は「現実主義者」であり、時代の潮流を読み取る才覚にも長けていた。「これからは天皇制の時代だ」という彼氏の「読み」は当たっていたし、彼氏がその制度の中に自分の「教義」を組み込んだことは、その後の天理教団が日本の近代史において最大規模の新興宗教へと「躍進」することのできた大きな理由となった。けれどもまさにそのことによって、秀司という人は生涯「苦しみ続ける」ことになったのである。「秀司のひながた」というものがもしあるとしたなら、それは文字通り「苦悩と矛盾のひながた」に他ならなかったのだ。

一方で中山みきという人が「通った」道は、「倒し合い」の上に自らの権力体系を作りあげた明治政府の国策と真っ向から衝突することになることを必然とする、誰がどう見ても「最も困難で険しい道」だった。それなのに彼女は「明るい心」を持っていた。「自分の良心」に従って生きることだけが、人間の人生を陽気で朗らかなものに変えてゆくのだということを、彼女はその生き方をもって、人々の前に示していたのである。そして実際に当時を生きた人々は、彼女の姿に触れただけで「幸せな気持ちになった」ということが伝えられている。彼女の人生が「苦労のひながた」だったなどというのは、秀司と同じような人生しか知らない人間が彼女の人生を前にした時に頭で想像して思うことにすぎないのであって、彼女が人々に示したのはまさに「陽気ぐらしのひながた」に他ならなかったのだ。

「苦悩と矛盾のひながた」と、「陽気ぐらしのひながた」。どちらの道を通ることが、人間にとって「幸せなこと」であるかは、明らかだと思う。そして秀司という人の人生にも、この「陽気ぐらしのひながた」を選び直すことのできたチャンスは、必ず存在していたはずなのである。

私は、自分の書こうとしているこの中山みきという人の伝記を完結させるまでの間に、秀司という人の人生にも「救い」はありえたのだということを、必ず証明したいと思っている。

それは、天理教の教えを「中山みきの教え」であると「信じて」生きてきた一人一人の信者さんたちの人生に、あるいは、「天皇陛下に命を捧げること」が「正しいこと」なのだと「信じて」その手を血に汚してきた人々が築いてきた歴史の上に今も生きている一人一人の日本人の人生に、そしてまた、「自分が正しいと信じたこと」のために何人もの「傷つけたくなかった人々」を傷つけてきてしまった私自身の人生に、果たして「救われる道」はありうるのかという問題に「答え」を出すことと、ひとつのことだと思っているからである。

今、私は、ようやく「前書き」を書き終えたような気がしている。

気合いを入れ直して次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。