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いつかどこかで見た映画 その75 『つつんで、ひらいて』(2019年・日本)

監督・撮影・編集:広瀬奈々子 音楽:biobiopatata エンディング曲:鈴木常吉 出演:菊地信義、古井由吉、水戸部功

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 電車に乗っていて、ふとまわりを見わたす。すると、他の乗客のほとんどがスマートフォンをのぞき込んでいるーーという光景があたりまえのようになったのは、いつ頃からだろう。それまでは、学生や若いサラリーマンなら漫画雑誌、やや年配の男性ならスポーツ紙か文庫本を開いていたものだったのに(……いっぽう女性たちは、老いも若きもおしゃべりに花を咲かせるか、化粧しているか、眠ったふりだったなーーというのは、あくまでぼくの“偏見”です、ゴメンナサイ)。
 こうなっては、おもむろに本を取り出して読みひたるなど逆に気がひけるというものだ。ましてや重たそうなハードカヴァーの単行本なんかだと、さぞや物好きか気どり屋みたいに見られてやしないか、などとつい自意識過剰(笑)気味になることもしばしば。朝と晩、家と大阪市内を往復する電車内での1時間30分ほどは、貴重な“読書タイム”なんだけどなぁ……。
 もっとも、「いや、スマホでだって小説や漫画は読めるし」とおっしゃる向きもあるだろう。ぼく自身、片手につり革を持ちながら本を手にし続けることの“しんどさ”は身にしみているし(実際、今も右手首が腱鞘炎気味だったり……)、軽いスマートフォンやタブレット端末で読めるものならそれはラクだろうな、とは思う。が、本はもっぱら古本屋であがなう者にとって、そもそも前提からしてありえない。というか、どんなに重くてかさばろうが、本は、あの金属と液晶ディスプレイの「板」じゃなくやっぱり紙に印刷された「書物」として手にしたいのである。
 同じ本でも、そういった書物にあって電子書籍にないもの。それはまずあの本を包み込む「ブックカバー(ジャケットともいうらしい)」だろう。電子書籍にも表紙はあるのかもしれないが、ここでいうブックカバーとは、ただ本の本体(!)を保護する“覆い”という以上に本の〈貌(かお)〉だ。書物には1冊1冊に“表情”がある。しかもそのカバーをはずすと、そこにはまた「表紙」という別の〈貌〉が現れるのだ(だから、そういったブックカバーがない表紙だけの体裁だったり海外のペーパーバックなどは、正直少し物足りなかったりする……)。
 そして何より、紙の質感というか“手ざわり”がある。それから、ページを指でめくるときの紙の音。さらには、そこに印刷されたーーというより“穿たれた”活字の連なりにも、その本ごとに書体や1行の文字数、ノンブルの位置が配慮[レイアウト]され、目に心地よかったり逆に気になったりする。もちろん本は“書かれた内容(=情報)”こそが第一だろうけれど、「書物」を読むことは、それらすべてをひっくるめた行為あるいは“体験”であるだろう。逆にいうなら、「情報」だけを入手するならむしろデジタル機器[メディア]で事足りる。と言う以上に、パソコンやらタブレット端末やらスマホのほうが、紙の本なんぞより情報を得るにははるかに“実用的”なのだ。けれど、本を愛する者にとってそれは単なる媒体[メディア]ではなく、あくまで手にしたり眺めたり、ときには“匂い”すらをも含めた(……新刊本のかすかな紙とインクの匂いや、古本のちょっと据えた匂いなど、書物にはいろんな“匂い”がある)、もはやひとつの「造型=作品[オブジェ]」なのである。
 そんな、書物としての本に〈貌〉や“身だしなみ”を与えるのが、「装幀」という仕事だ。作家が書いたテキストを前に、その「世界(観)」を本として“造型”するためにカタチを与え装いを凝らす、デザイナーでありコーディネーターでありアーティストでもある「装幀家」。だが、日本におけるその第一人者のひとり菊地信義は、どうやらそういった言われ方が気に入らないらしい。自らを装幀家ではなく「装幀者」と称する氏は、装幀の仕事を動詞で表すなら「設計する」ではなく「拵える」ことだと言う。それを、いかにも東京っ子らしく“こしらえる”じゃなく「こさえる」と発音する菊地氏。本をデザインするとはあくまで「他者があってのもの」であり、その依頼(=受注)をうけて本というものに、その中身にみあった「身体」を拵えることだと言うのである。
 広瀬奈々子監督の映画『つつんで、ひらいて』でぼくたち観客は、そういった菊地信義の“人と仕事”をまのあたりにすることになる。1977年にひとり立ちして以来、実に1万5千冊以上に及ぶ本の装幀を手がけてきた菊地氏。しかし文芸書から詩集、哲学書にいたるまで、それらのどの1冊を手にとってもそこには、「菊地信義」という装幀者ならではのたたずまいがあり“手ざわり”がある。いったいそこにはどういった過程があり、創意があり、作業があるのか……。これは、そんな氏とその“本づくり”を、広瀬監督自身がカメラをたずさえて3年間にわたって密着取材・撮影し、ゆかりの作家や出版関係者などの証言もまじえたドキュメンタリー作品だ。
 映画の冒頭、「酒と戦後派」と印刷された1枚の紙がくしゃくしゃに丸めて、ひろげられる。それを伸ばしてコピーをとると、活字には適度にかすれてあらたな風合いというか“味わい”がもたらされている。それをじっと眺め、検分する菊地氏。と、今度は束(つか)見本と呼ばれる本のサンプルに、まだ作業中のカバーをかけて全体のバランスや感触をたしかめつつ、またはずして調整にはいるのだ(ちなみにこの「酒と戦後派」は埴谷雄高の随想集タイトルで、菊地氏のカバーは、その講談社文芸文庫版のためのもの)。
 見本にカバーをかけ(=つつんで)、それをまたはずして(=ひらいて)の繰り返し。活字見本帳で思いがけない書体を発見しては喜び、紙に鉛筆と定規で線引きしたり、方眼紙にひと文字ずつ活字をミリ単位で切り貼りしたりという“手作業”が、菊地氏による「装幀」の現場だ。氏の机には、ハサミや筆記用具、ピンセット、スティックのりなどが整然と並べられているばかりで、コンピュータはない。もちろん最終的にはパソコンにデザインを取りこんで、データで入稿するのだけど、それは別の部屋にいる40年来の相棒的な女性オペレーターにまかされている。
 ……明朝体の活字に独特の変形をかけ、活字を大胆にレイアウトしていくことで知られる菊地氏のスタイル。だが、映画のなかで作家の古井由吉が言うように、「ぼくの本を何冊も装幀してもらっているけど、菊地さんは自己模倣におちいりたくないんですね」と、そこにはつねに1冊ごとの創意(=相違)がある。もうひとり、菊地氏の弟子にあたる装幀家の水戸部功が「(デザインにおける)あらゆることをやっていますね。本当に、全部やられている」と言い、そのうえで活字主体のレイアウト(タイポグラフィ)による菊地信義のスタイルを「シンプルなデザインって誰もが憧れるんですけど、それを推すことができないのがぼくらの世代」と、くやしがる(?)のだ。
 もっとも当の菊地信義自身は、事務所がある銀座のビルのベランダで自然に根をはった植物や迷い猫を面白がり、自宅ではコーヒーを淹れて古い蓄音機に耳を傾け、骨董市で仕事のヒントになる掘り出し物に目を輝かせるなど、その装幀と同じく生活もいたってシンプルかつアナログ。一方では、印刷会社で細かな色や紙の指定や変更をぎりぎりまでねばって交渉し、自分の望んだ仕上がりを実現しようとする(……この印刷から製本をめぐる一連の場面も、本作の白眉のひとつだろう)。まさに「職人[アルチザン]」と呼びたいそんな一徹さと、かつてはその“斬新さ”で出版界を席巻した菊地氏のスタイルが、今は“反時代的”なスタンスでなお「新しい」デザインを産みだしていることに、ぼくたちはあらためて感嘆するのである。
 ……亡くなった広瀬監督の父親もまた装幀家だったということから、そこに何か「父性」をめぐる精神分析的(!)な“企図”を予感してしまう「見方」もあるだろう(そういえば先に公開された広瀬監督の劇映画デビュー作『夜明け』も、「父性」が重要な主題になっていた)。が、この『つつんで、ひらいて』は観客をそういった観念性にみちびくのではなく、あくまで「本(=書物)」というものの物質性に、それを「こさえる」ことの魅惑と喜びにこそむけられたものだ。
 この映画を見たあと、ぼくたちは書店で見かけ、手にする本というものに対する思いがきっと大きく変わっていることだろう。そして、この先「出版」という形態がどのようになろうとも、俺は「書物」を手放さんぞ! と、あらためて心した次第だーー腱鞘炎の右手首をさすりながら(笑)

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