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いつかどこかで見た映画 その149 『ばるぼら』(2019年・日本)

監督:手塚眞 脚本:黒沢久子 原作:手塚治虫 撮影:クリストファー・ドイル(蔡高比) 音楽:橋本一子 出演:稲垣吾郎、二階堂ふみ、渋川清彦、石橋静河、大谷亮介、渡辺えり、美波、片山萌美、ISSAY、佐藤貢三、小林勝也、藤木孝、植田せりな、豊島美優、沙央くらま、島田雅彦、奥野玲子、林海象、一本木蛮

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 手塚治虫の作品は、何より『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』、『W3(ワンダースリー)』『リボンの騎士』などをTVアニメとして親しんだ世代なので、マンガ本を読んだのはずっと後年になってからだ。それも、古本屋でふと手にとった初期作品の『来るべき世界』のあまりの面白さに衝撃を受け、講談社から刊行された全400巻(!)の『手塚治虫漫画全集』を片っ端から読みあさったという次第(……とはいっても、せいぜい全体の10分の1にも満たないが)。
 そんな、ニワカというか「愛読者[ファン]」とはとても言えないものではあるけれど、読むことができた手塚マンガには、ある独特の読後感というか“後味”のようなものがあったように思う。なんとなれば、初期作品から晩年にいたるまで手塚作品にはどこか奇妙な「暗さ」があって、それが一見すると単純明快なマンガ世界に複雑な味わいというか“陰影”を与えている。その味わいにこそ、ぼくという読者は魅了されたのである。
 ではその「暗さ」とは、核戦争や環境破壊、医療・人権問題などにも積極的にアプローチしてきた手塚治虫の、そういった題材やテーマの深刻[シリアス]さがもたらす「不安感」ゆえか? もちろんそれもあるだろう。と同時に、その独特の太く丸みをおびた描線と躍動感あふれるマンガ絵自体からにじみ出てくる、何か得体の知れない“不穏さ”ゆえではあるまいか。
 そう、一見すると鉄腕アトムや白いライオンのレオを筆頭とした愛らしいキャラクターたちが活躍する手塚治虫のマンガ世界は、一方で暴力や死、狂気、肉体的・精神的に“破壊”された異形の者たち、性的倒錯、等々といった「おぞましさ」に満ち満ちている。あのアトムですら、人間の子どものように「成長しない」がゆえにやがて創造主(=父親)である天馬博士にすら忌み嫌われる存在だった。あるいは、『どろろ』の百鬼丸や『ブラック・ジャック』のピノコの“出自”の異形ぶりを、ここで思い出してもいい。宝塚歌劇的な衣装(=意匠)[コスチューム]に彩られた『リボンの騎士』にしても、「男装の麗人」という以上に“男の子の心を持った少女”を主人公にした一種の性的倒錯劇に他ならないだろう。
 そういった、マンガ的世界にあってはネガティブな、隠蔽され排除されてしかるべきだった「性的」なるものと「暴力的」なるものをめぐる主題を、手塚治虫はあえて「マンガ絵」やストーリーに取り込み描き続けてきた。それこそが、この天才(であり“変態”!)をして戦後マンガを一変させ、君臨させ続けた要因だったのだ。
 そして、初期の少年・少女マンガから見えかくれしていたそんな手塚的「おぞましさ」を全面的に“開示”したのが、1960年代後半から70年代半ばにかけて精力的に発表された、青年誌向けの「大人のマンガ」だったのだと思う。自身の出版社とアニメ制作会社の倒産なども重なって、マンガ家として「低迷期」だったともいわれるこの時期、しかし手塚治虫は自らの内なる「おぞましさ」を積極的に対象化しようとした作品をあいついで発表する。ある意味、作家として最も野心的かつ創造的だったとすらいえるかもしれないのである。
 ビッグコミック誌で1973年に連載がはじまった『ばるぼら』もまた、手塚治虫自身があとがきで述べているとおり、《一言にしていえば、この物語は、芸術のデカダニズムと狂気にさいなまれた男の物語》だ。ひとりの小説家と謎めいた少女を主人公とした「芸術」の創造をめぐる奇譚であり、狂気と破滅の「ラブストーリー」である本作こそ、自身の“内なるもの”をとことんさらけ出そうとしたものではあるまいか。
 そんな手塚治虫の異端的な「(裏)代表作」を、長男である手塚眞が実写映画化すると聞いたのは、もう2年も前のことだ。そして、昨年の東京国際映画祭コンペティション部門でお披露目されていらい、ようやく劇場公開となった映画版『ばるぼら』。これはもう、見るしかないじゃないか!
 ……耽美的な作風で知られる、今をときめく人気小説家の美倉洋介(稲垣吾郎)。国会議員の父をもつ恋人の里見志賀子(美波)や、仕事から家事までこなしてくれる秘書の甲斐加奈子(石橋静河)に庇護されながら、いつしか人気に流され、作家としての創造意欲が失われていることに懊悩していた。
 ある日、洋介は新宿の地下道で酔いつぶれている少女を眼にする。ヴェルレーヌの詩をくちずさみ、自分のことを「ばるぼら」と名のる彼女に興味をひかれ、自宅のマンションへと連れ帰る洋介。だが、ホームレス同然の身なりで勝手に酒瓶をラッパ飲みし、自作を嘲笑するばるぼらを一度は追い出したものの、とあるブティックで妖艶な女性店員(片山萌美)に誘惑された洋介は、突然現れたばるぼらに助けられる。その店員は、マネキン人形だったのだ。
 その後も、恋人の志賀子だと思って抱こうとした相手が実は彼女の飼い犬(!)だったとき、またもやばるぼらに救われる洋介。こうしてばるぼらは洋介のマンションに居着くようになり、洋介もまた彼女へとのめり込んでいくのである。
 原作のマンガでは、洋介を人間の女性以外のマネキンや動物に欲情する「異常性欲」の持ち主だと説明される。彼はそのことを世間が知ってあざ笑われるのを、極度におそれていたのだと。だが映画はそれを、むしろ洋介を突如としておそった「怪異」として描く。そのことで、なぜかいつもその場に現れるばるぼらのほうこそが“怪しい”のではないかと思わせるのだ。
 案の定というか、志賀子の父親で、洋介の人気を利用しようとする政治家の里見権八郎(大谷亮介)が、心筋梗塞で突然死亡する。その直後、秘書の加奈子は洋介の部屋で虫ピンを何本も突き刺された人形を発見。それが呪術で人を呪い殺すものだと知った加奈子もまた、車に轢かれて重傷を負う。そのすべてがばるぼらのしわざであり、ここにいたってぼくたち観客は、彼女の正体が「魔女」であることを知るのである。
 その一方でぼくたちは、「ばるぼら」という存在を実際に眼にしているのが結局のところ洋介だけではないか、という事実に気づく。ひんぱんに彼のマンションを訪れる加奈子も、ばるぼらとは一度も出会ってはいない。洋介以外に彼女を「知っている」のは、洋介がばるぼらに誘われて行った奇怪なクラブの歌手(ISSAY)だけだ。あるいは、ばるぼらの存在を含むこれまでのすべては洋介の「狂気」ゆえの“妄想”、ひとり芝居だったのではないのか……。こうしてこの映画を見ているぼくたち自身もまた、(たとえるなら夢野久作の『ドグラ・マグラ』的な)現実と狂気のあわいへと迷い込んでいくことになるのだ。
 実のところ原作マンガでは、ばるぼらのことを「魔女」であると同時に芸術をつかさどる「女神[ミューズ]」として描いている。彼女との出会いによって、洋介はふたたび小説への意欲と創造性を取り戻し、発表したその作品はベストセラーとなるのである。
 映画でも、原作と同じくばるぼらが「おっ母さん」と呼ぶムネーモシュネー(渡辺えり子)が登場する。ムネーモシュネーとは、ギリシア神話に登場する「記憶」の女神の名であり、ミューズは彼女の9番目の娘である。けれども監督の手塚眞(と、脚本の黒沢久子)は、原作者の手塚治虫にとって切実な主題であっただろう“芸術と創造をめぐる寓話”という方向性に、それ以上あえて向かおうとはしないかのようだ。
 映画の冒頭に引かれる、「愛の中には狂気があり、狂気の中には理性がある」というニーチェの言葉。後半にいたってこの映画が際だたせていくのは、洋介とばるぼらの「ラブストーリー」であり、純愛というよりもまさしく“狂気の愛”にいたる姿だ。ーーもはや死と破滅への「道行き」へと向かうふたり。その光景は、ほとんどグロテスクでありながらどこまでも美しい。そして洋介は、ふたたび小説を書きはじめるだろう。それはまさしく、ばるぼらという魔女であり創造の「女神[ミューズ]」によって死が「詩」へと昇華された瞬間なのである。
 正直なところ、小説家仲間である四谷(渋川清彦)の扱いの中途半端さや、秘書というよりも洋介にとっての“守護天使”に他ならない加奈子(……いや、映画のなかで洋介の独白[モノローグ]にある「悪い女は邪悪な魔女であり、普通の女は退屈な魔女だ」の言葉通り、彼女もまた「(退屈な)魔女」だったのかもしれない。だからこそ交通事故で瀕死の重傷を負っても、「医者も驚くほどの快復力」で洋介のもとへ現れたのではあるまいか?)にしても、もう少しばるぼらに憑かれた洋介の「狂気」に対峙し相対化(あるいはむしろ、絶対化)するものとして描くべきではなかったかなど、いささか疑問がないわけじゃない。
 が、それ以上にここで描かれる「愛」と「狂気」と「詩(=死)」の幻想譚[ファンタジー]を、ぼくは本当に美しいと思う。何よりばるぼらを演じた二階堂ふみの、儚げでいてニンフォマニアックな「魔女」であり「女神」でもある“妖精[ニンフ]”ぶりの素晴らしさ! 彼女を「ばるぼら」に起用したとき、この映画はもはや“成功”を約束されたというべきだろう。
 そして黒いサングラス姿が、驚くほど手塚作品の人気キャラクターである「ロック(間久部緑郎)」そのものな稲垣吾郎をはじめ、これも手塚治虫の大人向けマンガ『奇子』の主人公ソックリな「マネキン女」役の片山萌美や、ほとんど滑稽さ寸前の“不気味さ”で圧倒するムネーモシュネー役の渡辺えり子等々、登場する人物たちがほとんど手塚マンガから抜け出してきたようなキャラ立ちなのが、またうれしい。「扮装統括」という肩書きで参加している柘植伊佐夫の造型の卓抜さも手伝って、単に似ているというよりアニメ以上に“手塚治虫の描くビジュアルそのもの”と思わせる説得力が、ここにはある。
 もちろん、クリストファー・ドイルを招聘しただけのことはある新宿歌舞伎町の異化効果満点なロケーション映像や、後半の山岳地帯における「風景」の切り取り方の“凄み”も、作品全体を一挙に「ヨーロッパ映画」風に彩ってしまう橋本一子によるモダンジャズ・テイストの音楽も等々、語るべき項目はつきない。とにかく細部にいたるまで、なんとも“贅沢”な映画なのである。
 ともあれ本作は、これまで「ヴィジュアリスト」として新奇というより“奇抜[キッチュ]”な映像によって見る者を幻惑してきた手塚眞が、はじめて撮った真の意味での「成人[アダルト]向け」な作品だ。ーー2年間待ったかいがありました、手塚カントク!

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