見出し画像

いつかどこかで見た映画 その103 『誰のせいでもない』(2015年・ドイツ=カナダ=フランス=スウェーデン=ノルウェー)

“Every Thing Will Be Fine”

監督:ヴィム・ヴェンダース 脚本:ビョルン・オラフ・ヨハンセン 撮影:ブノワ・デビエ 出演:ジェームズ・フランコ、シャルロット・ゲンズブール、マリ=ジョゼ・クローズ、レイチェル・マクアダムス、ピーター・ストーメア、パトリック・ボーショー、ジュリア・セーラ・ストーン、ジャック・フルトン、ロバート・ネイラー、ピーター・ミラー

画像1

 ヴィム・ヴェンダース。この監督の作品について書くのは、本当にひさしぶりだ。もちろん監督作品が日本でも公開されるたびそれなりに見てきてはいたんだが、あらためてこの監督や作品について“書く”ということはなかった。その理由は簡単だ。1990年代以降、もはや国際的な巨匠となった彼の作品に対して、ぼくはほとんど「失望」してきたからである。
 ……たぶん、最初に見たヴェンダース作品は『まわり道』だったか『ことの次第』だったか『ゴールキーパーの不安』だったか。いずれにしろ、この監督の特集上映の場だ。まだ1本も劇場公開されていなかった1980年代はじめ頃の日本でも、すでに「ヴィム・ヴェンダース」の名前は一部の映画ファンたちのあいだで知れわたっていた。当時は、ヴェルナー・ヘルツォークやライナー・ヴェルナー・ファスビンダーといった監督たちとともに、ヴェンダースも“ニュー・ジャーマン・シネマの旗手”として話題となっていたのである。が、こと日本では、ヴェンダース監督の映画がとりわけ愛され、一種「カルト的」に評価されていたのではなかったか。
 そして、ぼくもまた作品に一度に魅せられた。その後も、機会があるごとにヴェンダース作品の上映会を(ときには東京まで!)追いかけ、なかでも『さすらい』には心の底から打ちのめされた。そうして、カンヌ映画祭グランプリ受賞の冠をひっさげて『パリ、テキサス』が劇場公開された頃には、すでにぼくもまた立派な「ヴェンダース信者」になっていたのである。
 とまあ、そんなつまらない思い出話をしていてもしかたがない。とにかく、『パリ、テキサス』と『ベルリン・天使の詩』を頂点とする1980年代は、間違いなく「ヴェンダースの時代」だった。しかし、90年代に入った『夢の涯てまでも』以降の作品は、少なくとも、ぼくという信者にとってどこか「何かが違う」と思わざるを得ないものばかりだったのだ(……もっとも、『都市とモードのビデオノート』や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』から、最近のピナ・バウシェやセバスチャン・サルガドをめぐるドキュメンタリー作品はどれも「素晴らしい」とは思ったが、それにしても……)。
 では、何が違ったのか? それを書けばいくら文字数があっても足りないくらいだが、ひとつだけ言いうるとしたら、80年代までと90年代以降とでは、作り手であるヴェンダースの作家的視点というか、そのよって立つ〈場所〉が決定的に変わってしまった、ということにつきるだろう。そう、90年代以降のヴェンダースと作品は、「さすらう」ことをやめてしまったのである。
 「ロードムーヴィー」とは、言うまでもなくヴェンダース作品の代名詞だ。車で、徒歩で、この地上を彷徨する者たちによる、文字どおり「移動」こそを主題とした映画。『パリ、テキサス』までの主人公たちはまさしく、街を、路上を、砂漠を移動し、“さすらい続ける”者たちだった。彼らは、移動をやめない。それは、彼らが誰もみな〈孤独〉であるから、さらには〈孤独〉であり続けるためだ。〈孤独〉とは、ヴェンダース的人物たちに与えられた所与であり「本質」に他ならなかったのである。ーー独りであること、〈孤独〉であり続けること。そんな“魂”の在り方こそをヴェンダースは描いてきた。そして、少なくともぼくという観客には、それこそが彼の映画の「すべて」なのだった。
 だが、『ベルリン・天使の詩』によって、どうやら彼は青天の霹靂(!)のごとく“癒やされた”らしい。そこで、ヴェンダース的〈孤独〉そのものを体現したかのような守護天使(ブルーノ・ガンツ)が、地上に降り立ち人間になることでひとりの女性の「愛」を得る。それは確かに素晴らしく感動的な、あの作品を絶賛した浅田彰氏の言葉どおり「奇跡」のような瞬間だった。が、それはまたヴェンダース自身こそが〈孤独〉から“解放”された瞬間でもあったようなのだ。
 なるほど、それ以降の作品でもヴェンダースは、孤独な人物像[キャラクター]や“移動する者たち”を描いてきた。たとえば『ベルリン・天使の詩』の次作であり、90年代に入って最初の映画である『夢の涯てまでも』など、ある意味「究極のロードムーヴィー」とすらいえる。だが、文字通り世界中をかけめぐったウィリアム・ハート演じる主人公は、最後には愛する者たちが待つ「家」へと幸福な帰還をはたすのだ。そんなハッピーエンドほど、かつてのヴェンダース的な「ロードムーヴィー」にふさわしからぬものはないだろう。そこに〈孤独〉はない。孤独な人間や世界のうつろいをあたかも天上から見守るかのような、まさに「守護天使然」としたヴェンダースのまなざしを感じるばかりだ。
 もちろん、だからこそそれらを評価する向きもあるだろう。この世界で、人間たちがどんなに愚かなふるまいや間違いをおかし苦悩していても、それを「天使」的なまなざしで見つめることで得られる安堵、あるいは慰め。それをもたらすのもまた、『ベルリン』以降のヴェンダース作品の魅力としていいじゃないか、と。しかし、何よりもあの〈孤独〉こそを愛したかつての信者としては、そんな愛と優しさの「天使的」映画作家ヴェンダース(!)とその作品に、ただ落胆してしまうのである。そんなの、ただオメデタイだけじゃないか……
 と、長々と愚痴ったところで、いきなり手のひらを返そう。というのも、劇映画としては7年ぶりとなるヴェンダースの監督作『誰のせいでもない』が、あまりにも素晴らしかったからだ。もはや“改宗”しかかっていたぼくという信者をして、ふたたびひざまずかせるのにじゅうぶんな作品だったのである! ーーヴェンダースは、ここで「天使」的存在ではなくふたたび“地上”に降りてきた。しかも、そうして撮った映画は、これまでとは違ったまったく新しい「ヴィム・ヴェンダース作品」だったのだ。
 ……新しい? そう、ジェームズ・フランコ、レイチェル・マクアダムス、シャルロット・ゲンズブールなどの豪華キャストを揃え、「3D作品」として撮影されたというだけでも破格だが、それ以上に驚かされるのは、これが全編にわたって何とも知れない“不穏さ”をたたえた、まるでアトム・エゴヤンかダルデンヌ兄弟あたりが撮りそうな人間たちの複雑な葛藤を凝視した「心理劇」であることだ。
 舞台となるのは、カナダのモントリオール郊外。主人公である若い小説家トマス(J・フランコ)は、どうやら創作に行き詰まっているらしい。と同時に、恋人サラ(R・マクアダムス)との関係にも終止符を打とうとしている。
 そんなトマスが車で雪道を走らせていたとき、突然飛び出してきたソリ。乗っていた少年はどうにか無事だったが、彼を家まで送り届けて母親ケイト(C・ゲンズブール)に事情を話すと、彼女は血相を変えて車の方へと駆けていく。少年には、いっしょに遊んでいた弟がいたのだ……
 事故はトマスのせいではなかったが、罪の意識から酒におぼれ自殺未遂まではかる。が、彼はその経験を創作に活かすことで、作家として成功していく。そして今のトマスは、女性編集者アン(マリ=ジョゼ・クローズ)とその幼い娘ミナとの、新しい生活を築いている。一方、次男を喪った悲しみと罪悪感を抱えながら、残された長男とふたりで暮らすケイト。ーーこうして映画は、雪道での事故のてん末から、その2年後、6年後、さらに10年後という4部構成で、トマスたちそれぞれの人生を点描していくのである。
 先にぼくは、この映画について“不穏さ”をたたえた「心理劇」と書いた。だが、むしろこれは、心理というよりも「感情」の劇といった方がいいかもしれない。ぼくたち観客がこの映画に見るのは、波瀾にとんだ人間ドラマでも、おたがいの心のうちを探りあう内面のドラマでもない。ここにあるのは、登場人物たちが人生の局面で見せる感情のひだと、その感情にとらわれた彼や彼女がどんな行動[アクション]をおこし、あるいはどう反応[リアクション]するのか、ほとんどそれだけだ。もっとも、そのなかでひとり主人公のトマスだけが、感情をあらわさないのである。
 ぼくがこの映画で最も驚いたのは、主人公トマスが実に「いやな奴」であることだ。それも単純に性格が悪いとか、心がゆがんでいるとかじゃなく、一見すると好青年だし節度も他人への配慮もあるのに、ずっと見ているとこの人物への嫌悪感が次第にじわじわと強くなっていく。いったいヴェンダースの作品で、これほどまでに微妙かつ絶妙(!)な「いやな奴」が描かれたことなどあったろうか?
 ……心の慰めになるからと、ケイトから渡された聖書。それをトマスは、ろくに目を通すことなく放り出す。あるいは、別れ話をもちかけた恋人サラを病院に呼び出し、ふたたびよりを戻したいそぶりを見せながら、結局トマスは別の女性アンとの生活を選ぶ。また、施設で暮らす年老いた父親(演じるのは、『ことの次第』のパトリック・ボーショーだ)が面会にきたトマスにどこか冷淡なのも、この息子に対する“拒絶”のあらわれだったのではあるまいか。
 あるいはそれを「作家の業(ごう)だ」と、ヴェンダースは言うかもしれない。とあるインタビューのなかで、彼はトマスについてこう述べている《作家は全てを言葉に変える。この孤独で謎めいた仕事のために、恐らく出会いや会話の中で浪費できないのです。(中略)トマスも謎めいた人物で、彼は自分に起こったことの多くを自分自身の中に留め、本の中だけで発展させます。》……サラの心を傷つけ、ケイトを悲しみのどん底に突き落としながら、それすらも「全てを言葉に変える」ことで作家として成功していくトマス。だが、本当にこの男はそれで“許される”のか? そう映画は問い、ぼくたち観客もまた問う。まさにそんなとき、16歳になったケイトの長男クリストファー(ロバート・ネイラー)が彼の前にあらわれるのだ。そうして映画は、一挙に“不穏さ”を漂わせはじめるのである……
 作家志望で、感情をおもてに出さないクリストファー。まるでトマスの「分身[アルターエゴ]」のような彼らの“再会”は、これがアトム・エゴヤンの映画であったなら陰鬱かつ決定的な「悲劇」的結末をむかえたかもしれない。
 が、ここでヴェンダースが用意したのはひとつの“救済”である。クリストファーがある「感情的」な行動をとったとき、トマスもまた「感情的」な行為でこたえる。そのときぼくたちは、この映画の原題である『すべてうまくいく』の意味をついに理解するだろう。そして、やはりこれがまぎれもない「ヴィム・ヴェンダース作品」であったことを。
 そういえば、この作品のチラシにあった解説に「感情のランドスケープ」という一節があった。今回は普通画面で見てしまったぼくもまた、その「風景[ランドスケープ]を今度はぜひ3Dで見てみたいと思う。ーーともあれ欧米での低評価など笑い飛ばしてしまいたくなる、掛け値なしにこれは傑作でした。ヴェンダース先生!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?