いつかどこかで見た映画 その142 『パーフェクト・ゲッタウェイ』(2009年・アメリカ)
“A Perfect Getaway ”
監督・脚本:デイヴィッド・トゥーヒー 撮影:マーク・プラマー 音楽:ボリス・エルキス 出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、ティモシー・オリファント、キーリー・サンチェス、スティーヴ・ザーン、マーリー・シェルトン、クリス・ヘムズワース、アンソニー・ルイヴィヴァー、デイル・ディッキー、ウェンディ・ブラウン
さて、あらためて2009年をふり返って見ると、外国映画は結局のところクリント・イーストウッドの『チェンジリング』と『グラン・トリノ』という2本の監督作品に尽きるだろう。このいずれ劣らぬ傑作を立て続けに見ることができたなんて、何と贅沢だったことか! でも、考えてみたらその前の年には「硫黄島2部作」があったわけで、その前は『ミリオンダラー・ベイビー』が、さらにその前は『ミスティックリバー』が……と思い返す時、今さらながらイーストウッドの怪物ぶりというかその創造力の“もの凄さ”に圧倒されてしまう。そして今年(2010年)も、監督最新作『インビクタス 負けざる者たち』が2月公開され、次回作もすでに決定しているらしい……いやはや。
そりゃあ『アバター』の大ヒットもめでたいけれど、ジェームズ・キャメロン監督が実に12年ぶりに撮った1本の「超大作」よりも、まるでアタリマエのように年に1本ないし2本コンスタントに公開されるイーストウッド作品の方が、「映画」にとってどれだけ切実なまでに重要なことか! 考えてもみてほしい、70歳をこえてなおこの旺盛な創作力は、ジョン・フォードやハワード・ホークス、ヒッチコックなどアメリカ映画における神話的巨匠たちですらなかったものだ。……もうひとりの“怪物”マヌエル・デ・オリヴェイラとともに、いったいイーストウッドに「晩年」というものが存在するんだろうか?
(それにしても『アバター』だが、いくら最新技術を駆使したといっても、結局のところ「3D」映画なんて1950年代以来の“古風”な仕掛けじゃないか。その上、あの映画の設定自体ディズニーのアニメ作品やテレンス・マリック監督の『ニュー・ワールド』として映画化された、インディアン娘ポカホンタスと白人男ジョン・スミスによる17世紀初めの有名な「歴史秘話[ロマンス]」の焼き直しなのである。むしろこの、西部劇や秘境冒険ものなんかで幾度となく繰り返されてきた、「新天地で出会った異民族間の男女の恋」という古典的な定型[パターン]に忠実だという、そんな“古さ”こそが逆に『アバター』の魅力なのかもしれない。そう、同じジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』がまさにそうだったように。いずれにしろこの映画は、「映像革命」などという謳い文句とは裏腹に、いかにもキャメロンらしい「大時代[アナクロニズム]」ぶりがいよいよきわまったものだと思う。そして繰り返すが、それは批判じゃなく、ぼくという観客にとってむしろこの作品のほとんど“唯一”の作品的魅力であり価値なのである。)
ところで、キャメロンの最新作に隠れる(?)ようにして、もうひとりの監督が久々に映画を撮り、まもなく日本でも公開されることをご存知だろうか。その男の名前はデイヴィッド・トゥーヒーで、作品のタイトルは『パーフェクト・ゲッタウェイ』。何だか、昨年日本でも公開されたハル・ベリーとブルース・ウィリス出演の『パーフェクト・ストレンジャー』とまぎらわしい邦題だが、原題そのままである。しかも、「結末は誰にも言わないでください」という類の宣伝文句が冠された、いわゆる“意外な犯人像とドンデン返し”が売りのサスペンス・スリラーであるところも同じだ。
さらにキャストが、ミラ・ジョヴォヴィッチ以外は、『ダイ・ハード4.0』の悪役も記憶に新しいティモシー・オリファント、人気TVシリーズ『LOST』のキエレ・サンチェス、最近ではアニメ映画の声優としての方が有名そうなスティーヴ・ザーンなどといった、通好みだがどこか地味な顔ぶれ。たぶん、少なからぬ方々はここでスルーしてしまうかもしれない。
が、もう一度繰り返すけれど、何といってもこれはデイヴィッド・トゥーヒーの監督・脚本であり、しかも「5年ぶりの新作」なのである。残念ながらぼくはトゥーヒーの監督デビュー作『グランド・ツアー』を見逃したままなのだけれど(これがまた相当な傑作らしい……クヤシイ!)、監督第2作『アライバル・侵略者』と、何といっても『ピッチ・ブラック』には驚かされ、少なからず魅了された。それ以来、新作を大いに待ち望むごひいきのひとりなのだ。
トゥーヒーの映画は、物語も、その語り口も、常にひと筋縄ではいかない。監督や脚本作品(……ハリソン・フォード主演の『逃亡者』なども手がけている彼は、一流の脚本家でもある)の多くが「SFかスリラーあるいはその両方」という嗜好というか“こだわり”ぶりも素敵だが、ケヴィン・コスナー主演のSF大作『ウォーターワールド』の脚本や自身の監督作『リディック』、あるいはスリラーとしては前述の『逃亡者』や『ターミナル・ベロシティ』の脚本作品等々、物語の展開が進むにしたがって次々と観客の意表をつくストーリーテリングの、“これぞ職人技!”というべき巧妙さこそがトゥーヒーの持ち味であり素晴らしさだ。
たとえば『アライバル』でも『ピッチ・ブラック』でも、思いがけない登場人物が突然殺されたり、実は主人公の敵だったりする。そうした“仰天[サプライズ]展開”によって、物語は一挙に一寸先は闇という“疑心暗鬼[サスペンス]”な緊張感をおびるのだ。第二次世界大戦下のアメリカ軍潜水艦内を舞台にした異色の超自然スリラー『ビロウ』にしても、海上からはドイツ軍の執拗な攻撃、艦内には幽霊の謎と狂気といった二重の恐怖を、派手な見せ場によってではなく、あくまで「艦長の死」をめぐる“謎”を中心とした物語のなかに描出する。ーーそう、ここでもやはり「スリラー」としての語り口こそが、作品としての魅力の中心だったのである。
そして、トゥーヒー自身の監督作としては珍しくSF要素のない純然たるスリラーである『パーフェクト・ゲッタウェイ』もまた、ストーリーに仕掛けられたギミックで観客を煙に巻く(たとえば、『ユージュアル・サスペクツ』のような)のではなく、あくまでストーリーテリングの妙によって見る者の意表をつくことをめざすものだ。しかも、ほとんど「反則」ぎりぎりの“技[ギミック]”によって!
……映画の新進脚本家と妻が、ハネムーン先のハワイ・カウアイ島で2組のカップルと出会う。折しもハワイでは新婚の男女が惨殺され、その犯人も男女のカップルらしい。この2組の、どちらかが“殺人鬼カップル”ではないかと疑う脚本家と妻。疑惑と不安を抱きながらもふたりは、イラク戦争に従軍したという男とその恋人のトレッキングに同行する。その途中で彼らは、もう一方のカップル、いかにも不穏な雰囲気を漂わせる入れ墨男とガールフレンドと森のなかでふたたび出くわすのである。
と、物語の紹介はここまで。これ以上は、どうしてもネタバレになってしまう(本作の映画パンフも、ここまでしかストーリーにふれていない)。けれど、これだけのあらすじのなかに、実はひとつ重大な“仕掛け[ギミック]”が仕組まれていることだけでも、やはり伝えておくべきだろう。しかもそれは、もはや「卑怯だ!」と怒る向きがあっても仕方がないような、非常にあやうい線での手口だ(……もっとも、冒頭の結婚式のパーティ場面を撮ったヴィデオ映像からすでに“伏線”が仕掛けられ、しかもそれがストーリーテリングにおける「アリバイ」にもなっていることを、もしアナタが本作をもう一度見直したなら、きっと驚きとともに了解することになるんだけれど)。
だが、そういうストーリーの意外性やドンデン返しの面白さだけが、この映画の魅力のすべてではあるまい。トゥーヒー監督自身も、《物語が半分以上過ぎてから、全部のカードがひっくり返った後、物語は急展開していく。そして、観客に対して圧倒的な勢いで挑みかかる。その革新的な手法こそが、僕が撮りたかったものなんだ》と語っている。そうなのだ、物語がある一点でひっくり返り、ぼくたち見る者はあっけにとられるヒマもないまま、その後の怒濤のような急展開をただただ息をのんで見守ることになる。そうして、シナリオの面白さはもちろん、ミラ・ジョヴォヴィッチをはじめとする主要キャストたちがなぜ「この役」を演じたのか、その“完璧[パーフェクト]”なキャスティングとともにあらためて納得させられるばかりなのである。その時そこにあるのは「スリラー映画」本来の醍醐味そのものに他ならない。
たとえば、前述の似たような邦題のハル・ベリー主演作『パーフェクト・ストレンジャー』が何より(大方の否定的な評価にもかかわらず個人的に)「面白い」のは、これがウィリアム・アイリッシュのミステリ文学の古典的名作『幻の女』を変奏[アレンジ]したものであったからだった。ただあの映画の場合、元ネタの『幻の女』やアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』(と、書いた時点でもはやネタバレだけれど……)に代表される〈叙述トリック〉を扱うにしては、やはりストーリーテリングにいささか問題があったというべきだろう。“犯人探しをつとめる探偵役の「私」こそが犯人だった”というトリックは、その真相を隠したまま「探偵=犯人」の主観を描き得る小説の〈叙述[ナラティブ]〉とはちがい、カメラという「第三者の視点」を通してでしか物語ることのできない映画では極めて困難(というか、ほとんど不可能)であるだろう。だからほとんどの場合、「意外な真犯人」とは台詞で明かされるか、唐突に暴露されるしかないのだ(『パーフェクト・ストレンジャー』がまさにそうだったように……)。
だがしかしデヴィッド・トゥーヒーは、この『パーフェクト・ゲッタウェイ』においてそんな〈叙述トリック〉にあらためて挑戦してみせた。そして前述の通り、それをやっぱり「卑怯」ととるか、ギリギリの線で納得できるかは、見る人それぞれだろう。けれど、「スリラー映画」におけるトゥーヒー監督のその“野心”こそを、ここでやっぱりぼくたちは評価すべきだと思うのだ。実際、コケオドシばかりにカネをかけたそこいらの「大作」なんぞより、よっぽど聡明[スマート]で「面白い」映画であることだけは間違いないのだから。
……などと言ってるオマエがいちばんウソくさいって? なら、ここでのミラ・ジョヴォヴィッチのいつにない“「普通の女の子」ブリッコ”だけでもとにかく見てソンはありません、と言っておこう(これ、ホント)。
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