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いつかどこかで見た映画 その41 『サクラダリセット前篇・後篇』(2017年・日本)

監督・脚本:深川栄洋 原作:河野裕 出演:野村周平、黒島結菜、平祐奈、健太郎、玉城ティナ、恒松祐里、 吉沢悠、大石吾朗、八木亜希子、 及川光博、加賀まりこ

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 山田宏一氏の名著『友よ 映画よ/わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』のなかに、ゴダールがフランスの映画業界誌に寄せたというこんな一節がある。
《わたしはこんな夢を見た。一大フランス映画会社というものが存在していて、そこでおこなわれる大事業のカタログのなかに、クロード・ソーテの映画が一本、アンリ・ヴェルヌイユの映画が二本、ミシェル・オーディアールの映画が三本、ルイ・ド・フュネスの映画が四本、そしてとくに、アラン・レネ(スウェーデンまで行かずとも)の映画が一本、フランソワ・トリュフォー(ロンドンまで行かずとも)の映画が一本、わたし自身(ニューヨークまで行かずとも)の映画が一本……と、みなそれぞれ割当てがきまっているのである。つまりこうしたすばらしい大事業がフランス映画のルノー専売公社であると同時にルーヴル美術館である、といったような産業形態を夢みたのである。》(「ラ・シネマトグラフィー・フランセーズ」誌1965年1月16日号より)
 ……つまり、ここでゴダールは60年代フランス映画の代表的な「娯楽映画」の担い手であるヴェルヌイユ監督や、売れっ子脚本家オーディアール、喜劇の人気スターだったルイ・ド・フュネスなどの映画で利益をあげつつ、なかなか監督作が撮れずにいたソーテにも手をさしのべる。そして、不本意ながらも海外の資本で撮らざるをえない自分やトリュフォー、レネにも「フランス映画」として作品を完成させるような産業形態を“夢みた”というのである。
 まあ、そこには当時のフランス映画界の停滞ぶりに対するゴダールの皮肉というか、自分たちのような“作家主義”的作品を「商業的ではない」として冷ややかにあしらう向きへの怒りが込められているんだろう。が、こういう夢想は理屈抜きに楽しい。自分が映画会社を持っていたら、あるいは10億円の宝くじが当たったらあの監督やスターに映画を撮らせたいーーとは、たぶん映画ファンなら一度は夢みたはずだ。
 そして、もしぼくが「一大日本映画会社」の事業主だとしたら、まず何よりも石井岳龍監督にハリウッド映画並みの製作費でJ・G・バラード原作映画をオファーする(……まだ石井聰亙時代の『水の中の八月』は、実にバラード的かつ実に実に美しい傑作だった)。さらに、小泉堯史監督の作品にプロデューサーとして名を連ねたいというただそれだけの理由で、これまた予算[カネ]と時間をかけて何でもいいから(!)撮っていただく。そう、この2大プロジェクトというか“道楽”だけは「事業主」としてぜひともゆずれない。
 ほかにも、山崎貴監督には“本当に自分が撮りたい映画”を実現させてその真価を問いたいし、『溺れるナイフ』の山戸結希や、『PARKS』の瀬田なつき、高校在学中に完成させた『脱脱脱脱17』が文字どおり圧倒的だった松本花奈、本物の「天才」だと思わざるを得ない井口奈己などの女性監督にも積極的に投資していこう(……我が社の場合、男性監督に対していささか“冷淡”な傾向がある・笑)等々、妄想はふくらむばかりだ。
 そんななかで、この人だけには年間1本のペースで映画を撮っていただきたいという“主戦級[エース]監督”として、何としてでも招聘したいのが「深川栄洋」である。理由はいうまでもないだろう。今の日本映画にあって、彼ほど作品的にも商品的にも安定した映画を撮り続けている監督などそうはいない。「事業主」としてこれほど信用でき、心強い存在はいないからだ。そして何より、ぼく自身が毎年1本は深川監督の新作を見たいからなのである(……「事業主」は夢のまた夢としても、せめて宝くじが当たったら喜んで投資するんだが。いや、本気[マジ]で)。
 現在公開中の『サクラダリセット・前篇』と5月に公開される『後篇』は、だから個人的にも心待ちにしてきた。2005年の『狼少女』で劇場用長編映画デビュー以来、毎年1本ないし2本の作品を発表してきた深川監督だが、2016年はついに新作の登場がなかった。だからこそ『サクラダリセット』は、われわれ監督のファンにとって昨年のぶんも含めての「2部作」ということで、まこと喜ばしいかぎりだ。しかもこれがライトノベルの映画化であり、同じくラノベを原作とした秀作『半分の月がのぼる空』から7年ぶりとなる「青春映画」とあっては、期待も大いにふくらむというものじゃないか(……そう、ぼくという観客にとって『半分の月がのぼる空』は、深川監督への評価と信奉を決定づけた“特別”な作品なのである)。
 もっとも、青春映画といっても本作の主人公たちは「普通の少年少女たち」じゃない。彼らはそれぞれに特殊な能力を持ち、その能力ゆえにどうやら実の親から引き離されて、住民の約半数が能力者である「咲良田[サクラダ]市」という街で公的機関に管理されながら暮らしている。この映画は、そんな高校生たちを中心とした物語なのである。 
 ……『前篇』の開巻まもなく、朝の通学路で女子高生の矢野優花(皆実未来)が交通事故に遭う。現場に駆けつけ、瀕死の同級生を前にした浅井ケイ(野村周平)は、となりにいる同じクラスメイトの春埼[ハルキ]美空(黒島結菜)に「ハルキ、リセットだ」と指示をだす。彼女は、世界を最大3日分巻き戻す「リセット」能力の持ち主だった。
 一方の浅井ケイは、見たものや聞いたことを完全に保存し思い浮かべることができる。その「記憶保持」能力はあまりに強く、ハルキのリセットにも影響を受けない。リセットすれば自分の記憶も消えてしまうハルキだが、ケイの能力によってふたりは1回だけ過去をやり直すことができるのだ。ーーこうして時間を巻き戻した彼らは、時間・空間を超越して相手に「声」を届けることができるケイの親友・中野智樹(健太郎)の力を借りて、矢野優花を事故から救う。
「泣いている人がいたら、そのときリセットを使います」と言うハルキ。だがケイに思いを寄せる彼女は、たった一度自分とケイのために使ったリセットによって同級生の相麻菫(平祐奈)の死を救えなかった。2年前のそのできごと以来、ハルキはケイの指示がないとリセット能力が発動できなくなっている。一方のケイも、深い後悔の念とともに、咲良田という街の能力によって相麻をよみがえらせることをずっと模索していた。
 そんなふたりが、咲良田市の能力者たちを制御する管理局の中枢であり、未来予知の能力を持つ「魔女」と呼ばれる老女(加賀まりこ)と出会うことから、『前篇』の物語は大きく動きだす。自らの人生をあえて犠牲にし、“名前のないシステム”として街を管理・監視する機関に従事してきた彼女は、まもなく迎える死を前に、かつての恋人・佐々野(大石吾郎)との再会を望んでいた。そこへ、ケイを敵視する岡絵里(常松祐里)や、「魔女」の能力を利用して管理局を支配しようとする村瀬陽香(玉城ティナ)を巻き込んだ脱出劇が展開され、そのなかでケイはついに相麻菫を“再生”する可能性を見出すのだ。
 そして『後篇』は、前作のラストにおける「相麻菫」(……と、なぜ彼女の名前を“カギカッコ”で括ったかは、ぜひ映画でご確認いただきたい)の驚くべき言葉から幕を開けるだろう。そして物語は、咲良田の街からすべての能力者を一掃しようと画策する管理局の浦地(及川光博)と、ケイたちとの対決がメインとなる。と同時に、なぜ咲良田が「能力者たちの街」になったのか、どうしてこの街を出たら能力が失われてしまうのかーーといった謎と、その裏に秘められた50年以上におよぶ人々の悲しい歴史が浮き彫りになっていくのである。
 ……正直に言うと、2部作を通じて登場人物たちの「能力」をめぐる設定やその説明が複雑すぎるきらいがないではない。原作を未読で、この映画を1回見ただけで完全にすべて理解できた観客を、ぼくは本気で尊敬するだろう(いや、単純に「オマエの頭が悪いだけだろ」ということかもしれないが……)。
 それもあって、というよりそれゆえに、ぼくなどは『後篇』における管理局の浦地が言う「人間には特別な能力などない方がいい」という考えにこそ同意したくなってしまう。ーーそういえばあるインタビュー記事で、深川監督自身も《そういう“自分には理解できないもの”が登場してきたとき、旧い世代の人間はそれを排除して“昔の状態”に戻そうとする。実は僕もそっちのタイプの人間でして(笑)、だから後篇を撮りながら最も共感できたのは、(中略)管理局の浦地(及川光博)なのですね》と語っていたのだった。
 だがそれは、《僕たちの世代では使いこなせなかった“新しいもの”を、次の世代の若者たちが上手く使いこなしてゆく。突き詰めて言うなら「進化」とはそういうものであり、そうやって「未来」は作られてゆくのかもしれない》という監督の言葉どおり、主人公のケイはあくまで能力の「力」を肯定し、それこそが理想を、真の「正義」を実現できると信じていた。そしてその信念が、最終的に浦地との“思想対決(!)”に勝利するのである。そして、“それでも「力(=権力)」というものはかならず腐敗し独裁化する”と信じて疑わないぼくという「旧い世代の人間」もまた、最後にいたって感動したーーということは“説得”されそうになったことを告白しなければならない。
 が、それは決して主人公にではなく、そんなケイの願う「幸せな結末」のために自分を犠牲にしてまで協力した相麻菫や、ケイを愛するハルキや、彼を信じる中野たち仲間(=同志)の姿に対してであるだろう。ーー主人公の10代らしいまっすぐな“善意”や正義感には、やはり理解はしても共感はしない(というか、できない)。けれども、主人公を含めた彼ら「若い世代」には確かに未来を託し得るのかもしれない……と。 
 設定だけを聞けば、『XーMEN』シリーズのような超能力を駆使して活躍するスーパーヒーローたちの群像劇のようだが、ここにはド派手な超能力合戦はないし、正義と悪の対決といった構図もない(……そもそもこの2部作を通して、真の「悪人」はひとりも登場しないのだ)。この映画は「SF青春ミステリー」という体裁をとりながら、その実驚くほど“思弁的”な主題を語ろうとしている。ーーかつて「セカイ系」と呼ばれる一群の作品にあった、“この「セカイ」を救うべきか、世界を犠牲にしてでも「キミ」という存在を救うべきか”という命題。世のオトナたちがとまどい、あるいは嘲笑した、しかしゼロ年代に10代を迎えた者たちにとっては切実なあの命題に、この映画は最終的にこう答えるのだ。「どっちも救おうよ」と。
 それが、この映画の作り手である深川栄洋のメッセージであるとしたら、ぼくもまた全面的に支持したい。そして若者たちよ、映画館へ走れ!

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